気味が悪いものを見た。それは、ブラウン管の向こうでか弱いヒロインを襲うゴーストでも、下水道から這い出てくる鼠でもない。俺の前に立ってる男の事だ。こいつの方が背が高いから、見上げなければ視線を合わせることが出来ない。けれど、見上げる必要なんてなかった。だって、遠くから事務的に顔を合わせる事はあっても、こんなに近くで嫌々ながらも視線を合わせた事がなかったから。
夏でも冬でも狂ったように首へ布を巻きつけて、厚手の長いコートに長ズボン、ブーツに手袋。彼はいつも、僅かに露出させた顔面でさえマフラーに押し付けていた。目元と口元は歪に描かれた曲線。もちろん俺ではない第三者へ、それと、存在のない空間へ。何が愉快なのか知らないけれど、彼は奇妙な笑みを絶やさなかった。意識しているのかしていないのか定かではないが、故意にニアミスしながらすれ違う俺とロシアの顔面が向かい合う事は皆無で、彼の笑みを真正面から見た事は一度もなかった。今、この瞬間までは。
「こんにちは、アメリカ君」
上弦が二本、下弦が一本。ピエロのような面を貼り付けた顔が、すぐ近くで笑っていた。なんでも俺とロシアは今日から仲良くするらしい。拒否権はなくて、上司たちが膝を突き合わせて決めたそうだ。正義の合衆国が赤に塗れた土地を懐柔したのだ、上司はそう言っていた。嘘だろうと、鼻で笑ったけれど、引き結ばれた口が真剣さを際立てて俺の軽口を封じる。できっこないさ。ロシアが俺と仲良くするわけないじゃないか。俺だってまっぴらごめんだ。
1トンの錘を付けたように重くなった足を引きずって、颯爽と歩き出した上司の背を追う。行き先は聞かなくたって分かっていた。北にある氷しかない国が待つ白い家だ。
「話は通ってるかな。僕らは今日から友達になるみたい。よろしくね」
着いた途端に冷凍フランス人のレッテルを貼られた彼と二人きり。上司同士で会議があるとか何とか。一国を担うヒーローがロシアに気圧されるなんて事にはならないように、負けじと一歩踏み出した。
「そうみたいだね。全く冗談じゃないんだぞ!」
「アメリカ君?」
一層近くなった距離を埋める為、ロシアの上半身が覗き込むように少しだけ倒れて視線が近くなる。髪の毛も肌も白いロシアの瞳が紫色だって事に気付くほど近くて、思わず仰け反った。おかしな体勢の俺へ変わらず笑みを向ける。
「・・・納得している訳じゃないんだろう?」
肯定を期待して投げかけた問いは、あっけなくひっくり返された。
「納得も何も決まった事じゃない」
すっ、と開いた薄目が焦点の先を探して少しだけ彷徨い、アメリカのアイスブルーを見つけて、また笑みを濃くした。
「アメリカである俺とだぞ」
「ロシアである僕が、アメリカである君とだよ」
教科書でも読み上げているようにスラスラと吐き出す抑揚のない声。無性に気味が悪かった。ロシアの瞳も、声も、表情も、身体も、親指の爪の先からだって、俺に対する好意は少しも感じられなかったから。
「・・・握手でもする?」
ニコニコと笑いながら無防備に右手を差し出してくるロシアに、目の前でパチパチと火花が散った。
「昨日の、今日で、君と仲良く出来る筈ないだろっ・・・」
抑えきれない戸惑いが溢れ出す。なんなんだ。俺ばかりが慌てふためいているって言うのかい。
「だって、上司に言われたから」
「上司に言われたからって、呑み込める事と呑み込めない事があるだろう」
「ないよ」
あっさりと返った答えに、二の句が継げなくなる。愕然とする俺を一人残して、ロシアは笑う。
「死ねって言われたら死ぬのかい、上司に言われたらっ、君は」
子供染みてると分かってはいても、何でもいいから言い返さなくては気がすまなかった。
「死ぬよ」
まるで初めて悪戯を思いついたような幼い悪を潜めた俺の言葉に、考える間もなくやはりあっさりと答えが返る。
「上司が死ねって言ったら、僕は同志のために死ぬんだ。僕はロシアだから、大嫌いな君の前でも笑っていられる」
気味の悪い笑顔に気味の悪い返答。ようやっと露出したロシアの内部は、剥がれ落ちた鉄壁を修復する事無く、続けて爆撃のような衝撃を垂れ流しにした。
「君と僕は違うんだよ。根っこから全く別のもので出来てる。知らなかった?」
弧の形に歪ませていた顔のパーツを正位置へと戻し、無表情のロシアが淡々と告げる。睨むような眼光の鋭さはなくとも、嫌悪も敵意も剥き出ていた。不特定多数に撒き散らす貼り付けた笑顔よりも、こっちの方が可愛げがあるじゃないか。
「知っていたさ」
ロシアから感じる気味の悪さは、いつの間にか消えていた。
20101230