人々が活気付き、街には喜びの声が溢れる。眩いほどの色とりどりの花が咲き乱れ、あちらこちらでギターを弾く男は、リズムを取りながら陽気な調子で愛の歌を口ずさむ。
 まるで僕だけが全く違う世界にいるみたい。彼らと僕は、透明だけど決して崩れない壁によって隔てられている気がした。
 ポケットを探り四つ折りの紙を取り出す。ファックスで送られてきた手書きの地図だ。
 駅がここ、壁一面をピンク色に覆われた古本屋さんの前を通り、小さなエンジェルが舞う噴水を右に曲がる。そこからあとは道なりに。
 目指すは真っ赤なトマトのマーク。

 迷うことなく辿り着くことが出来たけれど、チャイムを鳴らしても返ってくる返事がない。もう一度、リンゴーン、と重たい音色を響かせる。約束しているのだから勝手に入っていいよね、そう判断して塀をくぐり敷地の中へ。
 玄関には向かわず、広々とした裏手のガーデンに回る。ベランダから続くリビングの出入り口には、鍵をかけていないことが多いのだ。もちろん昼間、それもスペイン君が家にいる時だけ。僕との約束を忘れ、お出かけしてしまってないように祈りながら、壁伝いに歩みを進めた。

 真っ白な壁はすぐに終わりが見えて、角を曲がり視界に映った光景に思わず目が丸くなる。地べたに寝転がるスペイン君らしき物体が一つ。丸めた上着を後頭部の下に敷き、大きなふちの麦藁帽子を日よけに半分だけ被り、顎の下に通った緩めの紐が、そよそよと流れる涼しい風で飛んでしまわないように守っていた。
 おおかたガーデンの手入れをしている最中、眠気に見舞われ本能に従いシエスタを始めたのだろう。リビングを見やればドッカリと佇む背の高い時計が午後2時を指していた。

 足音を立てずに頭元へ近づく。深く眠っているようで、起きる気配はない。しゃがみ込み、麦藁帽子の中を覗き込んだ。寝息を立て、しっかりと瞑られた瞳を覆う瞼はピクリとも動かない。
 頬をつんつんしてみようか、鼻をつまんでみようか、はたまたお腹の上に座ってみようか。色々な悪戯が思い浮かぶけれど、気持ち良さそうに眠りこけるスペインの顔を見ているだけで心臓がぽかぽかしてきた。
 コートが汚れることも気にせずに両膝を地面へ下ろす。マフラーが落ちてしまわないように両肩に乗る薄い桃色をごそごそと弄った。
 片手は手前、もう片手をスペインの身体を跨いだ先へつき、ゆっくりと顔を近づける。
 柔らかい髪の毛と同じ、チョコレート色の睫毛がくるんと上を向いていた。その下には、隠された二つの大きな瞳が沈んでいる。瞼が退けば、光沢のあるエメラルドが姿を現し、優しく僕を包んでくれるのに。

「スペイン君」

 小さな声で名前を呼ぶ。僕の声に反応するように、眉間にしわを寄せて鼻先をスンと鳴らした。それでも、やっぱり瞼が開かない。寝ている君が悪いんだよ、そんな言い訳をしてから唇を落とした。
 ちゅ、ちゅ、と何度も啄ばめば流石に違和感を覚えたよう。寝ぼけ眼を薄っすら開き、ふえ、と気の抜けた声を漏らす。僅かに開いた口の中へ舌を忍び込ませ、ふっくらとした感触を味わう。奥へ奥へと侵入させ上顎をなぞり、スペイン君が好きなところを舌先でくすぐった。

「ぷは」

 口の端に溜まった唾液を舐めとり、上体を少しだけ起こして距離をとる。頬を赤く色づき困惑顔のスペイン君は、ようやく状況を把握したみたい。
 瞬きをしてから視線を合わせてきたその瞳は、何かを訴えているよう。

「ねえ起きて」

 そう言いながら退こうとした僕の腕をスペイン君が引っ張った。支えを失いスペイン君の胸の上へ落ちる。顔を上げた僕の頬を日に焼けた指が捕え、輪郭を辿るように滑り落ちて離れていった。

「スペイン君?」
「なあロシア、もう一回」

 赤い舌をちょこんと出して子どもみたいな表情で笑う。細められた双眸の奥に燃え上がり始めた熱情を見つけ、その誘いに乗っていいのかどうかほんの少し考えた。だってここは、敷地内とはいえ外だもの。高い塀が堤防になる一方で、おしゃべり程度の声量でも軽々聞こえてしまうから。
 ちょっと恥ずかしいよね、と結論を出し否定の言葉を紡ごうとしたけれど、その前にスペイン君の唇に食べられてしまう。だから僕は、とりえず声を出さないように両手をぎゅう、と握り締めることにした。




20100706