世界会議が終わり、宛がわれたホテルの部屋で寛いでいると俺と同じ国家の一人が訪ねてきた。
部屋に通してソファに誘導する。何か飲むかと聞いたら首を振って俺を見上げた。
「ねえアメリカ君、ちょっと僕の頬を殴ってみてくれない?」
爆弾発言をぶちかましてくれたのは、緩やかに口角を上げて笑っているロシア。
殴っても怒らないのかい。頼んでおいて後で100倍返しなんて子供みたいなことはしないだろうね。
「生憎だけど、俺には君を殴る理由がない。弱いものいじめは俺の主義に反するからね!」
「弱いって誰のことかなあコルコルコル」
「自分のことが分かってないって、とっても可哀想なことなんだぞ・・・」
「もういいや、君なら殴ってくれると思ったのに。仕方ないから僕のことが大嫌いな日本君に頼んでみるよ」
なんら未練なく立ち上がる。
なんだいそれ。俺が君を大嫌いだから殴るように頼んだのかい。俺に断られたら次は日本か。
無性に腹が立って、歩き出したロシアのふわりと浮かぶマフラーの端を捕まえて思い切り引き寄せた。
「うわっ」
突然のことに踏ん張りがきかず、後方へ傾いた身体はロシアの意思を反れて重力に従うばかり。
硬いフローリングの衝撃を覚悟したが、ぼふ、と柔らかい感触に受け止められた。
「ほら、こんなに弱いじゃないか」
「不意打ちでしょ?ノーカンだよ」
見上げたまま不快だと訴える眼差しを向けるロシアは、両足と腹筋に力を入れて逃げようと試みるが、仰け反ったままでは不十分。軽々と押さえ込んでしまえる。
後が怖いから程ほどにして拘束を解くと、バッと振り払われた。
「びっくりするじゃないか」
「自業自得でしょ。もう行くよ、邪魔したね」
水道管を取り出して反撃を始めるかと思いきや、すたすたと扉に向かっていく。
日本のところへ。日本の部屋に行って、君は無防備に頬を差し出して殴られるのかい。
つい数分前の苛立ちが蘇ってきた。
「なあ、待てよ」
今度はマフラーじゃなくてロシアの腕を掴む。
なあに、と振り向いたロシアの顔は、いつも通りの何を考えているのか分からない奇妙な笑顔。
本人は笑っているつもりなんだろう。ロシアはきっと、笑顔を作っていることすら気づいていない。貼り付けただけの笑顔が本物だと信じ込んでいる。
笑顔は楽しいときにするもんだ。俺と二人きり、一秒でも早く去りたいこの場にその表情は似つかわしくないだろ、なあロシア。
「なんで殴ってほしいんだい、理由によっては歯が折れるくらい思いっきり殴ってあげるよ」
長い睫毛に縁取られた目が品定めするように俺を見た。
ふいに視線がそれて、ぽつりと零す。
「・・・殴られたら痛いのかなって思ったから」
「what?痛いに決まっているだろう?」
「幼い頃は痛かった。大きくなって殴る側になってから時間が経って、今でも殴られたら痛いのかどうか確かめたくなっただけ」
弱々しく漏らされる男にしては高い声が途切れ、俺の返答を待つ。
ロシアは時々、手がつけられないほどナーバスになると、リトアニアが言っていたっけ。これは相当重症なようだ。上司に何か言われたか、それともバルトの3人と喧嘩でもしたか、はたまた姉妹といざこざがあったのか。
一発殴られて気がすむなら、被害はロシアの頬と俺の右手が少し腫れる程度にとどまる。しかし、拳を振り上げる気がこれっぽっちも起こらない。ほんの数十年前なら、嬉々として殴っていただろうに。
「やーなこった」
「理由を話したらって」
「oh!捏造しないでくれよ、理由によってはって言ったんだ」
そう言うと、ロシアの双眸が細められ、強く睨みつけられた。ほんの一瞬、確かに俺に向けられたロシアの本心。
どうせなら睨まれるより笑顔の方がよかったけれど、まあ俺には難題だろう。何せロシアの古ぼけた頭の中では、お互い嫌い合っている設定なのだ。これだから年寄りは頭が固い。そんな頭、俺が弾いてやる。
左手でロシアを捕まえたまま、右腕をプラチナブロンドが揺れるおでこまで持ち上げる。
訝しげな視線が鬱陶しいけどまるっきり無視をして、中指を曲げ親指の腹に当てて指先に力を込めた。
「アメリカく・・・痛っ!」
バチン、と大きな音がしてロシアの叫び声が上がった。
「痛いに決まっているだろ。幼い君も、俺の前に立っている君も、同じロシアなんだから。俺だって中指が痛い」
想像以上に痛くて、爪が割れてないか確認するもなんとか無事なよう。
掴んでいた手を離して、ロシアの額に垂れる前髪をかき上げる。白い肌が一部赤く染まっているが傷になってはいない。
なんとなくほっとして視線を下ろすと紫色の目が近すぎるところにあって思わず一歩後退した。なんで驚かなくちゃいけないんだ、と自分自身に問いかけていると、左から猛スピードで平手が飛んできた。
「っ!」
頭の中まで揺れた。左頬にクリティカルヒットしたのはロシアの右手。
「なにするんだい!」
「だって君がデコピンしたから」
「君が殴ってって言ったんじゃないか!」
「殴ってって言ったのにデコピンだった。そもそも僕がやられっ放しなわけないじゃない」
すました顔で平然と言葉を並べる。確かにその通りだけど。
「日本君だと吹っ飛んじゃうから嫌だったんだ。君なら僕がちょっと叩いたってビクともしないでしょ?」
「おいおい今のがちょっとだって?全く面白くないジョークだよ。凄く痛かった!」
「うん、僕も」
その声と表情に次の反論が引っ込んだ。
マフラーに埋められた口元がどうなっているかは分からないけど、たぶん笑っている。だって、声が嬉しそうだから。
「君を叩いた手が、とっても痛かった。おあいこね」
「ロシ」
「なんだかすっきりした。自分の部屋に戻るよ」
すっかり鬱憤が晴れたよう。なんだい、俺はただのサンドバックかい。
不貞腐れて足元に視線を落とすと。
「アメリカ君。スパスィーバ」
「え」
鼓膜を震わせた異国の言葉。
「ふふっ、分からなくていいよ。じゃあね」
・・・タイミングが悪すぎじゃないかい。そういうことは俺の目を見て言ってくれよ。
「Thanksくらい、俺だって知っているさ」
20100620