身も凍るような極寒の冬を越えて早3ヶ月。今日は6月6日。
新緑の息吹を含んだ心地よい風が、全身を覆う長い毛先を撫でてくれる。少しだけ開けられた窓の隙間に鼻先を突っ込んで外の空気を肺一杯に吸い込んだ。
すぐ側の通りを歩く中年の女性を発見する。彼女の腕に抱かれた2匹の子猫が、僕のよく知る兄弟猫にそっくりで気づけば「ニャフフ」と鳴いていた。
「ご機嫌だね」
ふわりと背中に降りてきた白い手がお尻から頭までを行き来する。2、3度往復すると、最後に耳の後ろをカリカリと掻いて離れていった。
彼は僕のうちの人で名前はロシア。大きくて朗らかな彼はいつでも優しく笑っている。
友だちのフランス猫君は「お前は飼い主にいい意味でも悪い意味でもそっくりだ」って難しい言い回しをしてくるけど、僕は生まれつき笑っているように見えるらしいし、きっと顔が似てるってことだよね。
お腹の下に腕を通され、気づいたときには彼のマフラーが目の前にあった。6月になって日本猫君のおうちでクールビズとかいうノーネクタイ祭りが始まっても、8月になって強い日差しに負けてぶっ倒れても、彼はマフラーを巻いたまま。
恐がりなアメリカ猫君が「あいつのマフラーは頭と胴体を繋ぐ接着剤なんだ!万が一とったりしたら頭がゴロンと落ちちゃうんだぞ!トゥースキュアリーだよ!!」って言ってたけど、そんなことないって僕は知ってる。バスルームで僕が泡達磨になるときは、裾をたくし上げたズボンと半袖だけだから。虹色のふわふわ浮かぶしゃぼん玉を追いかけてるうちに、隅から隅までぴっかぴかに洗ってくれる。まあアメリカ猫君には教えてあげないけどね。
頭のてっぺん、耳と耳の間に彼の鼻が潜り込む。両の手も背中に回して、ぎゅう、っと抱きしめてくれた。なんていい匂いだろう。僕と彼しかいないこの大きすぎるおうちには、彼以外の人間の匂いが染み着いている。それは年々薄れていって、僕がいなくなるときには、彼の匂いしかなくなっているんじゃないかって時々不安になる。だって一人は寂しいからね。
着膨れした胸板に頬を預けると、とくんとくん、と小さな鼓動が伝わってきた。僕の心臓も彼と同じように動いているのかな。最近は見せてくれなくなったけど、彼は胸から赤黒い塊を自由に取り出す手品ができるんだ。僕はまだ成功したことはないんだけど、いつか彼に見せてあげられるように練習しなくちゃ。
ごそり、と動いて温かな身体が離れていく。ソファの背もたれに背中を預けて、僕を膝の上へ。右手をテーブルの方へ伸ばして何かを掴んだ。頭を上げて覗いて見れば、彼も僕も大好きなウォトカが入った瓶が。コルクを抜いてそのままぐいっとあおる。いつもながらいい飲みっぷり。半分ほどあった透明な液体は瞬く間に彼の喉の奥へ消えていく。
僕も飲みたいな。
「わっ、くすぐったいよ、ふふっ」
後ろ足を立たせて前足は星が付いた勲章の横へ。首を伸ばして彼の唇をひと舐めする。ああ、やっぱりおいしいな。
もっとほしくて、僅かに開いた咥内に舌を侵入させた。高いアルコールの焼けるような熱さに、彼の熱が上乗せされて脳がくらくらしてきたけれど「・・・っ」って耳に届いた小さな声が心地よかったから、足が痺れるまで強請り続けた。
「猫なのにウォトカが好きなんて誰に似たんだろうね」
ようやく離れた僕の顔を覗き込みながら不思議そうに小首を傾げた。膝の上に戻されて、彼の指先が顎の下のマフラー模様を撫で始める。彼の手はきっと魔法の手。どこを触られても気持ちがいいんだ。僕の手が大きければ、鋭い爪の代わりに器用に動く指があれば、彼にお返しができるのに。
次の猫会議で日本猫君に話し方を教えてもらおう。不器用な丸い手の代わりに「撫でてくれてありがとう」と「いつも一緒にいてくれてありがとう」それに「世界で一番大好きだよ」って伝えるんだ。
20100606