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「・・・・・・うん、うん・・・だからね、ナタっ」
「ん・・・イヴァン・・・?」
「あっ、ちょっと待って――ち、違うよ、こっちの話しで・・・学校の後輩なんだ、そう。なんでもないから、もう切るね、じゃあね」
よほど慌てているのか、イヴァンは電源マークが描かれたボタンを何度も押して、待ち受け画面を確認すると安堵の息を漏らした。
「ふう」
「誰だい?」
「妹のナターリアだよ・・・はあ、妹は僕のことが・・・大好きみたいなんだけどね、その、すごく」
「ああ・・・」
ロシアの妹であるベラルーシ。アメリカは、凄まじい形相をした彼女に追いかけられて号泣するロシアを目撃したことがあった。
この世界の妹も怖いのかとイヴァンへ憐みの眼差しを送る。
「一人暮らしを始めてから、一日のうちに一度でも僕が連絡を取らないと日付が変わる直前に電話が来るんだよ。取らないと・・・今度は本人が来るんだよ」
連絡を取るのを忘れていたのは自分とのことがあったからだと自惚れたいが、携帯電話を握り締めるイヴァンを見て心の底から喜ぶことは躊躇われる。
「・・・・・・」
「本当に怖いんだよ、本当に」
「・・・そうかい」
青を通り越して薄紫色になったイヴァンを前にアメリカは相槌を打つほかなかった。
「起こしちゃってごめんね。それに、枕にしちゃってたみたいで・・・太もも、痺れてない?」
「イヴァンの頭は軽いから平気さ」
「きみの頭よりは重いと思うけどなあ」
「あっはっは」
「ふふふ」
空調に引けを取らない程度に涼やかな空気が流れ、タイミングを見計らったかのように壁にかかった時計がピッと小さくなり日付が変わった。
「お腹へったね。パンがあるよ」
「パンがあるなら俺が焼くんだぞ!」
「そう?まあ頑張って焼くのはトースターだけどね」
簡素な、けれどもバターとジャムでカロリーはたっぷりの夕食をすませて、アメリカが自分の携帯電話をいじり始めた。
電話とメールが一件ずつ入っている、兄弟からだ。今どこ、そんな感じだろうと予想する。マシューからのメールを開くことなく新規でメールを開いた。
「ふあ・・・」
「眠いの?泊まっていく?」
そう言ってイヴァンの視線がソファへ向けられた。送信ボタンを押してマシュー宛てのメールを送りながら、口を尖らせてアメリカがむくれる。
「またソファかい?」
「ベッドで寝たいの?いいよ、ちょっと狭いけど我慢してね」
『マシュー。今夜はイヴァンの家に泊まるよ。Good night』
食器が擦れる音と、蛇口から水が噴き出す音。昨日の夜と今日の朝、二回分の食器を片づけるイヴァンは中々キッチンから出てこない。
カーテン越しに腹が立つほど青々とした空を見上げて、アメリカは昨夜のことを思い出していた。
「もう寝たかい」
イヴァンの部屋、イヴァンのベッド、そして、イヴァン自身。
じわじわと暗闇に慣れ始めた目に、薄っすらとイヴァンの輪郭が映り込んだ。ゆったりと呼吸する胸元が規則正しく上下していた。
ベッドからはみ出してしまうんだ、必要に迫られて仕方がないんだ、と余計な言い訳を考えながらそっとイヴァンへ身を寄せた。
剥き出た肌に手を乗せると、柔らかくて暖かかった。一度意識してしまえば、腹の底でむくりと湧き上がってしまうのは男の性で。
「・・・イヴァン・・・」
「ん、」
アメリカの問いかけに返ってくるのは意味をなさないものだった。
諦めきれずに、肘を支えにして少しだけ上半身を起こしイヴァンを覗き込む。仰向けで眠るモノクロの肌が、いつもより頼りなく見えた。
そっと頬へ指先を乗せる。目じりがぴくりと動くが、それ以上の反応はない。手のひらを包むように開き、もう一度、名前を呼んだ。
「、ん・・・ア、・・・く、ん。ぼく、もうね・・・い、よ」
寝言のような途切れ途切れの声が止むと、ふいにイヴァンがもぞりと動いた。
アメリカの方へ倒れた身体が、甘えるように擦り付けられる。背中に回った手と胸元の頭が寝やすい位置を吟味し、ちょうどいいところが見つかると、ぴたりと動きが止まって安らかな寝息が聞こえてきた。
起きる様子は全くない。
「生殺しって、こういうことかい」
おかしな格好で身動きが取れなくなったアメリカは、肘と背筋が限界を訴えるまでそのまま固まっていた。
「うわっ!」
無意識に背中を擦っていたアメリカの耳に、突然、高い叫び声が聞こえてきた。
あー、という嘆息に釣られてキッチンに入ると、エプロンの腹部を濡らしたイヴァンがいた。
泡を含んだ水が大量に跳ねてびっしょりと濡れ、エプロンからはみ出して首元やわき腹のシャツが透けてしまっている。
伸ばしそうになった手をなんとか押し止め、アメリカはイヴァンの鎖骨あたりに視線を止めながら意を決した。
「いったん家に帰って着替えてくるよ。昼を過ぎるだろうから昼ごはんも適当に持ってくるんだぞ」
「そう?じゃあ僕はのんびりシャワーでも浴びてるよ・・・濡れちゃったし」
イヴァンは煩わしそうな顔でエプロンを摘まみあげパタパタと煽った。
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「そういや昔・・・上司に言われてロシアに頼んだんだっけ」
手のひらサイズの箱を買い物かごに投げ入れると、先に入っていたボトルにぶつかりコンと跳ねた。
人は死に直面すると無性に子孫を残したくなるんだっけ。なら今の俺はただの人なんだろうか。
アルフレッドという人間を終え元のアメリカ合衆国へ還るまで残された時間はいくらもない。
男であるイヴァンとセックスをしたところで、子孫なんて残せるはずもないのに。それでもイヴァンと触れ合いたいのはなぜだろう。深く、貪欲に求めて、溺れるほどに抱き合いたい。
二週間前の自分が聞いたら、きっと驚く。眉尻を跳ねさせて、マシンガンを担いでポリスに突撃する覚悟ができたのかいって怒鳴られそうだ。容易く想像できて思わず笑みがこぼれた。
レジで支払いを済ませ、そのまま隣接するファーストフード店で昼食を買いイヴァンのマンションへ向かった。
「ごちそうさま」
「少なかったね。もっと買って来ればよかった」
「十分だよ。ハンバーガーはたくさん食べると飽きちゃうから」
相変わらず寒々しい財布がついに底を尽きた。月初めにお小遣いをもらったばかりだというのにどうしてこうなった。
「そっちの袋はなんなの?」
テーブルに無造作に置かれた薬局の袋にイヴァンの興味が注がれる。
不透明なグレーのそれを引き寄せながら、アメリカはイヴァンから視線を逸らした。
袋の中に手を突っ込み、ごそごそと取り出してテーブルの上に置いていく。買ってきたばかりのコンドームとローションが背筋を伸ばして並んでいた。
なんとなく姿勢を正したアメリカ。横目で盗み見たイヴァンはふむ、と何かを考えているようだった。
「・・・この前みたいに怖気づくならしないよ」
「おじっ・・・」
根に持っていたらしい。
例えば立場を逆転させて、その気になって寸止めされたら、それなのに碌に弁解もされなかったら。想像したら額がさっと青ざめた。
「違うんだぞ!俺は、君のためにっ」
慌てて繕うも、イヴァンの冷静な声に遮られる。
「ねえアルフレッド君、痛いに決まってるじゃない。・・・でもさ」
途切れた一瞬のうちに、アメリカはイヴァンの双眸に映り込んだ己の姿を見た。ぽかんと開いていた口端をきゅっと引き結ぶ。
「僕が痛がるからきみが嫌なの?じゃあきみとしたい僕の気持ちはどうなるの?」
イヴァンの抑揚のないトーンで紡がれた言葉に、アメリカは頭を叩かれたみたいだった。
あどけなさが残る面影は、アメリカを何度も戸惑わせ何度も抑止していた。大切に想うがあまりイヴァンがアルフレッドを想う心を忘れていた。
「や、めないからな。イヴァンがどんなに痛がったって、泣いたって」
「ふふ、なんならきみが痛がる方でもいいんだよ」
「・・・・・・君が入れるより俺が入れた方が被害が少ない」
「ああ・・・きみの、僕のよりちいさふぐ」
とんでもない事を紡ごうとしたイヴァンの口に手のひらを貼り付けた。
「なにか、言ったかい」
確かに前回、手の中で跳ねたそれは自分のものよりも大きかったけれど。じと目で見上げる。
「あはは。冗談はさておき」
「冗談には全く聞こえなかったんだぞ」
「今からするの?」
「したい」
「そっかあ。まあお風呂には入ったし、いっか」
よいしょ、と立ち上がり伸ばした腕はアメリカの目の前を通り過ぎてテーブルにちょこんと乗ったローションのボトルを掴み上げた。イヴァンがちらりと視線を落とす。その仕草にアメリカも慌てて立ち上がって小さな箱を取った。
中身が入っていないのではと錯覚するくらい軽いのに、今からする行為を生々しく伝えていた。
「行こ」
すたすたと歩いて行くイヴァンの背を追ってアメリカも足を踏み出した。
イヴァンの背中は、ロシアよりも一回りくらい小さかった。身長だって元の世界のアメリカといい勝負だ。垂れ下がり、ふわりと靡くマフラーが時折りアメリカの腹をかすめていった。
あと、たった二日。十八日なんて期限を付けたあっちの君に文句の一つでも言いたいよ。
きっと月曜日に学校で君と会うのは俺じゃないアルフレッドで、俺はアメリカ合衆国に戻っている。イヴァンはやっぱり泣くんだろうか。君を知らないアルフレッドを見て、君はどう思うんだろう。
こんな世界、俺の頭の中だけにある夢であればいい。そうすれば目が覚めたってイヴァンを泣かせずにすむのに。けれど、君が存在しないなんていやだよ。
なあイヴァン、君が忘れてしまってもアルフレッドなんて最初からいなくても、俺はずっと君を愛しているよ。考えたって無意味なら、俺はアメリカらしく、どんな時も前だけ見るんだ。もう遠回りも逃げもしない。
一人でなんか、泣かせないから。元の世界のアメリカ合衆国に戻っても、君に寄り添って一緒に泣くよ。これが、俺が選んだ道だ。
「いつまでも愛してる、イヴァン」
寝室の扉の前で、ドアノブに手をかけたままイヴァンがぴたりと止まる。
肩越しにぶつかった紫色の瞳が少しだけ驚いていた。
ふっと緩んだアメジストが、哀しげに揺らいだのは気のせいだろうか。
「・・・僕もだよ、アルフレッド君」