37

 最後の学生生活は、あっという間に終わりを迎えそうだ。
 いつもと変わらず、必要なことだけを手早く伝え終わった担任が解散の合図を出したのは五分ほど前。
 席を立ち蜘蛛の子を散らすように教室から消えていくクラスメイトたちを、アメリカは飽きもせずに眺めていた。

「じゃあな、アル」
「ああ、また月曜日に」


 ゴミ袋を手にぶら下げながら、のんびりと校舎を歩く。焼却炉はアルフレッドのクラスからひたすら遠く、ゴミ捨て係は敬遠されがちだった。
 靴を履き変え、下校する学生とすれ違いながら中庭を通り抜けるため歩みを進めた。
 ふと、先に見える大きな木の陰から話し声が聞こえてきた。わざわざ人気がなく潜むような場所で交わされる密会がアメリカの好奇心をくすぐる。掃除当番という使命を振りかざし、首を伸ばして様子を窺った。

 人影が二人分。なで肩の背にジャージを纏った男がアメリカに背を向けなにやら必死になって相手に話しかけている。よくよく見れば、その男の背格好に見覚えがあった。昨日の帰りに、フランシスとイヴァンの間へ仲良さ気に割って入った二人のうちの一人だ。
 大げさなジェスチャーでしきりに口を開いている男の肩越しに、見慣れたマフラーがはためいた。

「・・・イヴァン?」

 男が一歩踏み出した拍子に、イヴァンの顔がはっきりとアメリカの目に映り込む。治まり始めていた胸元の疼きが、瞬く間に荒立ちを増した。
 二人きりで何を話しているのだろう。控えめに微笑んだ表情を崩してはいないけれど、どこか面倒くさそうだった。
 溜息を吐きながらうつむき加減でゆるく首を横に振ると、突然、しびれを切らしたように男がイヴァンに詰め寄った。

「ブラギンスキっ」

 懇願に似た声で名前を呼び、男がイヴァンの腕を捕らえた。
 アメリカがただ立っていたのはこの瞬間までだった。カッと頭に血が上り、脳が考え始めるより先に靴底が地面を蹴り無意識のうちに指先を折り曲げ握り拳を作っていた。
 背後から猛スピードで駆け寄ってきたアメリカに気が付かないまま、男がイヴァンを引き寄せようと腕に力を込める。
 イヴァンに触るな。音量のない怒鳴り声が頭の中で反芻しながら次第に身体の中で膨れ上がっていく。アメリカは躊躇うことなく男へ向けて握り締めた拳を落とした。

「――っ」

 どすんという音と砂埃を立てながら男が地面に尻もちを付くと、アメリカの双眸に透き通ったスカイブルーが戻っていた。
 それは一瞬の出来事だった。
 男に腕を引かれたものの、微動だにしないイヴァンがどうしようかなと思案しながら焦点を横へずらしたはずみにアメリカを認めて僅かに表情を崩した。
 いつもの底抜けた明るさが消え去ったアメリカの異変に気づくと、男の手を難なく振り払い庇うようにして前へ出る。手のひらにマフラーの端を巻きつけながら、飛び込んできた拳を柔らかく受け止めた。

 イヴァンとアメリカの手のひらを分かつマフラーが隙間を見つけ、ひらひらと定位置に垂れる。
 境がなくなった手を握り直し、イヴァンが涼しい顔でクラスメイトの男を見下ろした。

「早くお帰り。さっきも言ったけど妹のことは諦めて。ああ出直さなくていい。二度目なんてサービス、ブラギンスキ家にはないからね」

 口調は柔らかいのに全く熱のこもらない冷めきった声音が静かに落とされる。男の返答を待たず、アメリカの手を握ったままイヴァンが踵を返した。
 母親に手をひかれる小さな子供の様にイヴァンの後を歩きながら、いくらか冷静になった頭で自分の失態をとがめる。男の不穏な行動につい手が出てしまったけれど―

「さっきの。妹ってどういう意味だい・・・」
「僕の妹を気に入ったらしくてね、紹介してほしいんだって。だめだけどね」

 片手にゴミ袋をぶら下げて、勘違いして殴りつけた手は止められて、今の俺はどれだけ情けないんだい。
 目と鼻の先ではためくマフラーと、つかず離れずを繰り返しながらアメリカはこうべを垂れた。

「イヴァン、手を」

 蚊の鳴くような声でそう言うと、握られた手に力がこもった。

「アルフレッド君、ねえ、きみは僕に・・・興味がないんだっけ」

 耳を撫でる滑らかな声音は、淡々とイヴァンの心を映さずに紡がれた。
 好きだと言われ、咄嗟に嫌いだと喉から漏れそうになった。けれども、結局音になって聞こえたのは興味がない、だった。例えイヴァンを欺くためでも、俺の弱虫な口は嫌いだなんて言えなかったらしい。

「一般的にはね、好きの反対は興味がない、なんだってさ。だから僕は納得したのに。どうしてきみはあの子の邪魔をしたの?僕に興味がないんでしょう?放っておけばいいじゃない。それともヒーローだから弱い者いじめは見過ごせないかい?」
「イヴァン・・・っ」
「ゴミ、捨てないの?」

 いつの間にか焼却炉の前にいた。
 振り払われず、振り払えない手を感じながら轟々と燃え盛る炎の中へゴミ袋を放り込む。

「・・・僕はきみと話がしたいよ。すごくしたい。だから、きみが来るのを待ってるよ」

 最後は自分で選べ。そう宣告されたようだった。
 言いたいことだけ言ってさっさと歩いて行ってしまうイヴァンの背を呆然と見上げながら、アメリカはこくりと唾を飲み込んだ。

 

38

 ぼんやりと開いていた瞼が何度か瞬きして、ようやくアメリカは人気のない寂れたそこに取り残されたことに気づいた。
 それほど時間が経っていないはずなのに、記憶がひどくおぼろげで。ただ、去り際にイヴァンが残した、待っている、の言葉だけがアメリカの心臓を締め付けていた。
 手に持っていたゴミは焼却炉の中で、もう小さな灰になってしまっただろうか。

 待っているとは言ってもイヴァンの一方的な希望で、アメリカは約束をしなかった。
 だから当初の予定通りこのままジョーンズ家に帰って、残りの時間を引きこもって過ごせばいいだけだ。きっと、それが正しい選択なんだ。
 頭の中で必死に何かを叫ぼうとする己から目を逸らし、無理やりそう思い込んだ。
 アメリカ合衆国を捨ててまで、この世界の住人になることはできない。強制的に引き戻されるロシアとイギリスのおかしな力にあらがう術もない。
 タイムリミットは刻一刻と近づいている。すぐ目の前に別れがあるというのに、心の内を曝け出していったい何になるんだ。

 教室に戻ると電気が落とされ既に誰もいなかった。腰ほどの高さの机が並び、所々不揃いに歪んでいる。
 アメリカはロッカーからバッグを取り出して自分の机へ置き帰り支度を始めた。

「あれ・・・」

 バッグの底で指先にこつんと固いものが触れた。摘まんで引き出せば、いつだったかイヴァンに貰った飴だった。
 真夏の暑さにやられ、ひしゃげている。両端を捻ってみると粘りついた飴が水玉模様のフィルムに貼り付いて中々出てこない。
 無意識のうちにゴミ箱へ狙いを定めた手が振り上げられた。けれど、投げ入れようとした腕がぴたりと止まり、飴玉はいつまでもアメリカの手を離れなかった。

「・・・・・・」

 手のひらに乗った飴玉を見下ろしながら、ふいにアメリカの顔がくしゃりと歪んだ。
 覆せない未来を知り、熟した想いを捨てると決意したことに嘘偽りなんてなかった。
 自分自身のために、何よりイヴァンのために。

 それなのに、小さな飴玉がどうしようもなく恋しかった。

「っ、イヴァン」

 弾かれたように動き出したアメリカは、飴玉をズボンのポケットに突っ込みバッグを掴んで走り出した。最後の帰り道を惜しむことも忘れてただ前だけを見つめて息を切らしながら電車に飛び込んだ。


「・・・いらっしゃい。アルフレッド君」

 玄関で出迎えたイヴァンが肩で息をするアメリカを訝しげに見下ろした。
 戸惑うアメリカを置いてリビングに入ると、イヴァンはまっすぐソファに向かって腰を落とした。
 数日ぶりに訪れた涼やかな部屋に真新しいところなんか一つもなくて、足を前に踏み出せば不思議なほどにあっさりと迎え入れてくれた。
 ペールブロンドが流れる首を傾けて、リビングの出入り口で縮こまったアメリカを見上げる。

「ここに来たってことは、話をしてくれる気になったのかな」
「・・・まだ分からない」
「・・・うん」

 イヴァンの頷きが静かに響いた。受け入れるでもなく、跳ね退けるわけでもなく、ただアメリカの言葉を待っていた。
 おずおずとソファへ近づくも、スカイブルーに映るのはそっけない床の模様だけ。項垂れた両手がズボンをぐっと握り締めると、ポケットに入れた飴が布一枚を隔てて手のひらに包まれた。

「俺は自分勝手だ・・・君を哀しませる末路を知っているのに」

 ようやく振り絞った声は、小さく掠れていた。
 イヴァンに届いているかどうかも分からない。
 聞こえなくてもよかった、せめて頭の中で捨てるなと叫ぶ自分に正直でいたかった。

「イヴァン、君に触れるのが俺以外であって欲しくないんだ」

 そう言いきって肩の力が抜けたら、自然と視線がほんの少しだけ高くなった。

「・・・あのね。勘違いしないでくれるかな、僕はゲイじゃないの。アルフレッド君だから受け入れたんだよ。分かる?」
「イヴァン、」
「僕が哀しむ末路なんて、きみのちっぽけな頭が弾きだした空想の未来であって、僕の未来じゃない」

 皺が寄った眉間の下で目を見開き、イヴァンの言葉を何度も飲み込んだ。
 足の裏が床を離れてすとんと膝が落ちる。立て膝のアメリカとほとんど同じ高さにあるイヴァンの目を覗き込みながら恐る恐る口を開いた。

「ある日、君をたくさん泣かせることになっても?」
「そんな未来のことは考えなくていいんだよ。僕、らは・・・この一瞬を、今を一番大切にしなきゃ。僕はねアルフレッド君。今、きみに触れたいよ。アルフレッド君とキスをして、きみの笑顔が見たいよ」

 後悔しない道を探していた。でも、そんな楽な道は一つもなかった。なら、俺は君に言いたい。

「・・・君が好きだよ、イヴァン。なんでかなんて分からない。男だし、いっつもマフラーを巻いていて不気味だし、笑ってるのかいないのかよく分からない顔をしてるし。でも、それでもイヴァンがいいんだ・・・愛してるんだ」

 ほんの少し紫色の瞳が震えた。泣きそうで、それでもやっぱり笑っていた。いつもよりも不格好な口元が喘ぐように何度か動いて、それからようやく声になる。

「僕も、きみが好き。ずっと大好き」

 先に動いたのはどちらだっただろう。手を伸ばせば届く距離にいるのに、全然足りなくて折り重なるように胸元をぴったりと合わせた。

 どれくらいそうしていたのか。胸の上で打つ鼓動に耳を澄ませ心地良いイヴァンの体温を感じていると、ふいに腕の中にいる躰から力が抜けてずんと重くなった。

「・・・寝てる?」

 起こさないように気を付けながら垂れた頭を見下ろせば、白い目元に薄っすらと隈が出来ていた。
 もしかして、悩んで眠れなかったのだろうか。平気な顔をして笑っていたのは、自分と同じように強がっていただけなのか。
 ソファに座り膝の上にイヴァンの頭を優しく乗せると、小さく開いた唇へ優しくキスを落とした。

「おやすみ、イヴァン」