35
「おい、マシュー。背中に亡霊が乗っかってるぞ。どこで拾ってきたんだ」
「ええ!怖いことを言わないでくれよ!って、ああ。アルフレッドのことか。さっきどこからか戻ってきたと思ったらずっとこうなんだ。何か知らないかい?」
「さあな。どうしたんだ?」
「それを僕が先に聞いたのに!」
購買で獲得してきたばかりの一日五十個限定のカツサンドをもしゃもしゃと頬張るマシュー。その背中には亡霊さながらのアルフレッドがぺったりとくっついていた。おかげで椅子からずり落ちそうだ。マシューの背中に額を乗せてじっと動かない足のある亡霊。暑苦しいが、話しかけてもうんともすんとも応答しないので好きにさせていた。
「アールー。食べないのかい?もうすぐ昼休みが終わってしまうよ」
二個目になるカツサンドの袋を開けて、後ろ手にアメリカへ渡そうとするもやはり石像のごとく動かない。
「もう、お腹が減って力が出なくなっても知らないからね」
焦点の合わない視界はぼんやりと歪み、ただ一定の間隔で呼吸を繰り返すだけだった。
何も考えたくない。やることはやったし、あとは残りの四日間をなるべくイヴァンと顔を合わさないように注意して過ごすだけだ。
イヴァンは、俺を嫌ってくれただろうか。自問しながら棘が刺さったままの胸元に手を当てた。ゆっくりと撫で付けても、熱い手のひらがいとわしく感じるだけだ。
いつしか昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響き、のろのろとA組に戻りアルフレッドの机に突っ伏した。
今すぐにでも元の世界に戻りたい。書類を溜めたりしないから、上司の言う事だってちゃんと聞くし、ファーストフードばかり食べないから。
どん底まで落ちた気分は、どうやっても回復しそうになかった。
ぼーっとしたまま午後の授業を終えた。昨日と同様、長細い箒で教室の隅から隅まで掃いていく。
なんの気なしに窓の外へ視線をやれば、流れる人の波にイヴァンを見つけてしまう。イヴァンは横に並んで歩くフランシスへ昨日と少しも変わらない笑顔を向けていた。落ち込んだ様子のないその表情に、ほっとしながらも苦い想いが瞬く間に膨張する。
誰かに呼び止められたようで、イヴァンとフランシスが足を止め後ろを振り返った。姿が見えなかったマシューだろうか、アメリカは咄嗟にカーテンの影に入る。そんなことしなくとも、どうせイヴァンは二年の教室を見上げないだろうに。わだかまった気持ちをどこへ向ければいいのか分からず、ちりちりとこめかみが焦げ付くような熱を持ち始めた。
フランシスが手を上げ、二人の友人をイヴァンとの間に迎え入れた。どちらもアメリカの記憶になく、初めて見る顔だった。フランシスたちのクラスメイトなのかもしれない。
おしゃべり好きなフランシスを中心にして、楽しげな様子はアメリカのいる二階からでも窺い知ることが出来た。クラスメイトに話しかけられ、イヴァンも嬉しそうに笑い、それなりに馴染んでいる。
尾ひれがついた半信半疑の噂が、イヴァンから友人を完全に遠ざけてしまったと思っていた。アメリカやフランシスがいないと、一人ぼっちだと思い込んでいた。
「なんだい、別に俺がいなくたって淋しくないじゃないか」
「掃除は終わったのかい?」
「マシュー・・・」
昇降口で待っていたのは、顔のパーツだけはお揃いの兄弟だった。
「どうしたんだい・・・俺に何か」
「それは僕の台詞だよ。ほら、いいから帰ろう」
それから家に着くまで二人そろってだんまりだった。
マシューは目に見えて元気がないアメリカを気にしてはいるものの、落ち込みようが異様なほどで安易に聞き出せず、アメリカは思考を鈍らせて痛みの残る記憶に必死になって蓋をしていた。手を緩めれば簡単に開いてしまうそれは驚くほど厄介で、反撃の隙を常に狙っているようだった。
リモコンを探しクーラーの電源を入れながら、マシューは鞄をソファへ放り投げた。
人差し指をハニーブロンドに差し込みカリカリと掻く。迷いながらも、おずおずと口を開いた。
「アル、僕に話して気がまぎれるなら聞くけど・・・なんていうか、その」
霞がかかったように淡い声音で、歯切れの悪い言葉でも、アメリカの耳にはしっかりと届いていた。差しのべられるこの手は、いつだってアメリカのことを思っていた。世界が変わっても兄弟は変わらない。
強がっていただけなのか、一人きりで立っているのは、とっくに限界だった。ゆっくりとマシューに近づきながら、くしゃりと顔を歪めた。
マシューの鎖骨に頭突きをしながらフローリングにぼそりと溢す。
「・・・最初から・・・何もなかったことにしてくれ、何も・・・何もなかった。それでいいじゃないか」
本当はずっと我慢していた。イヴァンの前で、だだっこのように泣き喚いてしまいたかった。大好きだって、言いたかった。やっとのことで流れた涙は頬を伝い顎の先を離れ、いくつもの雨粒になって落ちていく。
突然、泣き始めたアメリカを胸に置いたまま慌てふためくマシューは、頭を捻りながらもそっと手を伸ばし震える背中を撫でてやった。
36
「先生には午後から出るって言っておくよ」
「悪いね、マシュー」
「構わないさ。じゃ、行ってくるね」
マシューを送り出した足で洗面所へ向かう。テキサスを外して覗き込んだ鏡に、腫れぼったくなったまぶたが二つ並んでいた。あれから、呼吸をするだけで溢れる涙は止めようがなくて、放っておいたらこのざまだ。
流石にこの顔で登校するわけにもいかず、半日だけ休むことにした。昨日の今頃は、どうせなら金曜から家に引きこもっていたいと心から願っていたのに。蓋を開ければ、ズル休みの為に説き伏せなければならない強敵のマシューが自ら休息を提案してくれた。
午後から学校へ出て、授業を受けて、掃除をして、それでクラスメイトとはお別れか。フランシスとも・・・イヴァンとも。それに、休みが明ければマシューやアルフレッドも。この世界が俺の頭の中で捏造されたものでなければ、もう少しで君の生活を返すよ、アルフレッド。
心なしか名残惜しい気もするけれどアメリカの見た夢通りなら、今日を含めて残り三日でこの悪夢が醒めるはずだ。
「ああ、もっと細かく言えば・・・月曜の朝まで、なのかな。確か電車の中で目が覚めたんだっけ」
あれは今年一番のサプライズだった。吊革を掴む手も、きっちり締め付けられるような学生服も、見慣れぬ電車も、どう考えてもゲームのやりすぎて見てしまったへんてこな夢だった。
洗面ボールに水を張り、ゆっくりと顔面を沈めた。じわじわと熱を持つ目元をゆったりと撫でる水の波が心地よかった。
氷水に浸したタオルをぎゅっと絞ってからベッドに寝転がる。身体の中にある涙用の水分は流し尽くしてしまったらしく、胸の痛みだけが残っていた。
ひんやりとしたタオルをまぶたの上に乗せるのと同時に携帯電話が震えた。
「フランシス?」
半分だけタオルをずり下げてメールを開く。
『マシューだけじゃなくて、お兄さんにも頼りなさい』
たったそれだけ書かれていた。語尾についた無遠慮にぐにぐにと動くハートマークを見て、思わず笑い声が漏れた。
「フランスが世話焼きなのも、変わらないんだよなぁ」
斜め上でお節介なことが多いけど・・・心の中でそう続け、返信はせずに携帯を閉じた。
学校に着いたのは、昼休みを半分ほど過ぎた頃だった。校庭では一足先に昼食を終えた生徒がサッカーボールを追いかけ回し、熱心な吹奏楽部は音楽室で観客ゼロの演奏会を開いていた。
そんなごくごく普通の光景に、アメリカは目を細めた。存在し続けることに追われ、仕事に追われ、国に追われる毎日を送ってきた。戯れに他の国たちと学園ごっこもしたけれど、アルフレッドの生活は、それとは全く違うものだった。
昇降口に入ると日差しが消え、冷房がかかった教室から漏れる冷たい空気がひんやりと漂っていた。
「淋しくなるな・・・・・・っ」
突然、腕を引っ張られる。驚いて振り向けば、片方のほっぺをこれでもかと膨らませたフランシスがいた。
「なんだ、フランシスか。驚かさないでくれよ」
「アールーフレッド!返信くらいしろよ、心配しただろ!」
悪かったね、と肩を竦めて上履きに履き替えながらフランシスの周囲を見回した。フランシスのスタンドのごとく出没するイヴァンがいやしないかと警戒する。
「どこ見てるんだ?」
「なんでもないさ、俺を待っていたのかい?」
「まさか。たまたま見かけたから驚かそうと思ってね。ロッカーの影に隠れて機会を伺っていたんだ」
「確信犯かい・・・どうりで気配がなかったはずだよ」
「イヴァンと何かあったのか?」
「っ、ごほっ」
弱点を丸出しにしていたアメリカへフランシスが的確なクリティカルヒットを叩きこんだ。思いきりむせたアメリカが喘ぎ喘ぎ問い詰めるように言う。
「こほっ・・・なんで、そう思うんだい」
アメリカの背を軽く叩きながら、フランシスが呆れたように溜息を吐いた。
「そりゃあ、アルフレッドもイヴァンも顔と態度でこれだけ出されちゃあね。分からない方がおかしいでしょ」
「どういうことだい」
「あれ?アル。気づいてない?無理やり冷やしたまぶたがまだ赤いぞ。アルフレッドは午前中だけ休むんですよーってマシューが言ってたけど、直に氷でも乗せたのか?冷やし過ぎて逆効果だ」
「・・・」
「イヴァンは昨日から笑顔が怖いのよ。ずーっと笑ってんの。あれは笑ってないと他の顔になっちゃうからでしょ?」
「・・・そうなのかい?」
昨日、冷たく突き放してからそう時間が経っていなかったのに、イヴァンはなんてことない顔で笑っていた。だから、一層哀しかった。
ぺたぺたと目じりに手を当てながら、むくりと湧き上がった小さな歓喜から懸命になって顔を背けた。
「イヴァンとは・・・何もなかった、から君が気に揉むことじゃないんだぞ」
「ならいいけど」
あっさりと引いたフランシスが、アメリカの頭をくしゃくしゃと撫でまわした。
「イヴァンならアルフレッドがちょっとくらいワガママを言っても困らないと思うぞ・・・じゃあ、またな」
言いたいことだけ言って去っていく自称お兄さんにアメリカは、それができたら悩まないさ、と呟くことしかできなかった。