33
目の前で繰り広げられている光景は、もっぱらスクリーンの向こうに映し出された出来事だった。
末端に星が装飾されたステッキを振るイギリス。間にアメリカ合衆国の影を挟んで対するロシアは、白い頬にゾッとするほど紅い口元を引き上げ囁いた。
あのときマフラーの奥から漏れた口癖はただの言葉遊びなんかじゃなく、意味を持った言霊だったのか――摩訶不思議な彼らの力を端から信じていなかったアメリカの目に、全てがぶつかり合うその一瞬がスローモーションとなって映り込む。
彼らの間にいくつもの文字がにじみ浮かんだ。ミミズが這ったような古代文字が怪しげな光を放ちながらそこらへんに漂っている。魔法、十八、呪い、悪夢・・・どうにかアメリカが読み取れたのはその四つだけだった。
それらを頭の中で復唱した刹那、もう一つの記憶がよみがえる。
自販機の前に立つ二つの影。コーヒーを買うアメリカと愚痴を零すイギリスの背中を、少し離れたところからアメリカが見ていた。
「そういや、さっきはよくも邪魔してくれたな!もう少しでロシアに――
異常なほど眠くて、聞いている素振りをしていたっけ。ああ、イギリスはなんて言ったんだ。無性に重要なことのように思えて、アメリカは縋るような目で元兄を見た。
ふと、記憶の中のイギリスが人気のない暗がりを横目で伺う。誰にも見えないはずのアルフレッドの姿をしたアメリカがいる辺りを視線が一巡すると、イギリスの口が開かれた。
「――ロシアに悪夢を見せられると思ったのによ。お前が邪魔をしたせいであいつの18の呪いと混ざっちまったじゃねーか!ははっ、あれじゃあ、ちょうど真ん中にいたお前が、代わりに18日間の悪夢を見せられるかもな。なーんて・・・おい、具合でも悪いのか?ふらついて――」
呆然と目を瞠った。
半分開いた唇からは浅い呼吸が繰り返される。
内側からドンドンと殴りつける心臓がアメリカの脳に怖気を走らせた。
ずいぶんと長い時間眠り込んでいたようだ。身体中だるくて頭は重石を乗せられたように鈍い。部屋に差し込む光は昇りかけの淡い日差しではなく、ギラギラとした強く激しいものだった。
――こんなの不運な事故じゃないか。十八日間。この世界に来てから何日が経ったんだ。あと、何日残っているんだ・・・。
十八日間という期限を知り、アメリカは急に怖くなった。残り何日かを過ごせば目を覚ますことが出来るという確証を得たのに、手放しで喜べない。だんだんと冷たくなっていく指先は、きっと記憶の中でロシアを見たせいだ。
イギリスは悪夢だと言った、にじみ浮かんだ文字にも悪夢と書かれていた。それでも、アメリカにはこの世界がただの悪夢だとは言い切れなかった。この世界にはイヴァン・ブラギンスキがいる。その事実に、身震いがした。
ロシアは過去に、家族を失っている。好きな者が自分の傍を離れていってしまうことが何より嫌いなはず。イヴァンがロシアと同じように極度の淋しがり屋なら、自分が消えたあと、どうなってしまうんだ。
「時間が、ない」
記憶が頭の中をぐるぐると覆っていた。この世界に来たのは六月二十二日木曜日。そして、今日は七月六日木曜日。十五日目だ。今日を入れて残り四日。四日間を何食わぬ顔でイヴァンたちと過ごすか、それとも――
どうすればいいかなんて明白だった。恋人を一人で泣かせるヒーローなんてアメリカの辞書に存在するはずもない。どれほど辛くても、この世界がただの夢でない可能性が幾ばくかでも残っている限り必要なことだった。
「イヴァンに、嫌われる。俺の顔なんかちっとも見たくないって思わせる。イヴァンに・・・ロシアに嫌われるのなんか・・・ダイエットより、簡単なんだぞ」
決意を固めたアメリカの行動は早かった。シャワーを浴びてべたついた汗を流すとキッチンへ向かう。夕飯を抜いたから、お腹はぺこぺこだ。夕飯の残りを漁ることを見越してか、よくできた兄弟が冷蔵庫の中央に「大丈夫?」と書かれたメモ用紙を磁石で貼り付けていた。
その大丈夫は夕飯を抜いたことに対してか、それともテストの結果が良すぎたことに対してか。後者であれば、そこそこ失礼な気もするが目の前の皿にたっぷりとラップされた朝食の方が優先だ。
どう見ても二、三人前はある量をぺろりと平らげて一息ついた頃には、マシューが眼鏡をずらして目尻を擦りながらリビングへ降りてきていた。
「やあ、おはよう」
「・・・・・・っ、お、おはよう。アル」
しげしげと観察するような視線を送るマシューを見る限り、大丈夫?の解釈は後者が正解だったようだ。知恵熱でも出してやいないかと顔にはっきりと書いてある。
「カンニングなんかしていないからな。実力さ」
「分かっているよ」
あっけにとられた次の瞬間、くすくすと笑い始めたマシューに吊られてアメリカも歪に頬を緩めた。決心してから、眉間の辺りにこれから自分が行う任務がへばり付いて離れない。マシューと同じ顔で笑いたいのに、不格好な笑みが精一杯だった。
学校へ行けば嫌でもカウントダウンが始まってしまう。のんびり屋のマシューよりもゆっくりと、それでいて確実に準備を終えてから二人そろって家を出た。
34
一大決心をしたものの、時間割に拘束される高校生だということが頭からすっかり抜けていた。
朝の会が始まるほんの少し前に教室へ滑り込み、午前中はひたすらアルフレッドの席に座ってもんもんとしたまま時計の針を睨み続けた。
ようやく昼時になり、購買へカツサンドを買いに行こうと立ち上がると、教室の出入り扉の方でちょっとしたざわめきが沸く。
「アルフレッド!ブラギンスキ先輩が呼んでるぞ!」
聞き慣れない名前に戸惑うも一瞬ののち、大きく目を瞬かせた。無意識のうちに拳へ力が入り、ちらりとざわめきの元へ視線を寄せた。すぐ傍にいたクラスメイトに、おまえ何やったんだよ、と心配そうな声をこっそりとかけられながら待ち人の元へ向かう。心なしかアメリカを避けるようにしてクラスメイトの道が出来上がっていた。
ロシアが愛用しているマフラーと、うり二つのそれを首元に巻き付けたイヴァンがアメリカを見つけて、ゆるやかに笑いながらおいでおいでをする。アメリカはだらりと垂れたマフラーの端ばかりを見続けた。
「アルフレッド君。一昨日、変だったからさ、どうしたのかなって」
「イヴァン・・・ちょうどいい。話があるんだ」
かちこちに固まった表情を和らげることもできずに、イヴァンの脇をすり抜けた。どこへ行けばいいんだろう。自分の背を慌てて追いかけてくるイヴァン・ブラギンスキは、どこへ行ったって目立ってしまう。
考えて、悩んで・・・結局辿り着いたのはごみの焼却炉だった。人気もなければ雰囲気もへったくれもないこの場所は、これから自分が仕出かすことに、なんておあつらえ向きなんだろう。自嘲を漏らし噛み締めた口先は、心にもないことを言ってくれるだろうか。
踵を返し、くるりとイヴァンへ向き直る。相変わらず馬鹿みたいに笑っているのだろう、けれど、今のアメリカには真正面からイヴァンを見る勇気がないから実際のところがどうなっているのかなんて、ちっとも分からなかった。
「具合でも悪いの?」
首を傾げた拍子に頬へペールブロンドが流れる。対峙するキラキラと輝く金糸の下には、若干青ざめた顰め面があった。
「ねえ・・・」
心配げな声音とコンクリートがローファーに擦られる音が重なって聞こえた。一歩、また一歩とイヴァンが近づいてくる。いつかと同じ、爽やかなシトラスにイヴァンの甘い香りが混ざりアメリカの鼻孔を撫で上げた。
体温でも確かめるようにイヴァンの手がアメリカの額へ伸ばされる。その指先が触れるか触れないかのところで、精一杯不機嫌そうな表情を作り上げたアメリカがようやく顔を上げた。
「触らないでくれるかい」
目前でぴたりと止まった手が、ゆるく握られる。その手の向こうに怪訝そうにこちらを覗き込むアメジストが見えた。
「アルフレッド君?」
「もう飽きた。終わりだ」
「・・・・・・きみが何を言いたいのかよく分からないよ」
「だから、っ」
ふいに胸板へそっと手が添えられ、視界の端から端までがイヴァンでいっぱいになる。合わさった生ぬるい唇がぐっと押し付けられ、反射的に右手で払いのけてしまった。力任せに振った手はイヴァンに当たり、引っ掻いた指先に不快な感触が伝わる。
「・・・っあ」
微かなうめき声をあげたイヴァンが首元を抑えながら小さくよろめいた。掠れた声で、どうして、そう言われ思わず崩してしまった表情を、硬く強張らせて無理やり口を開いた。
「キスなんてその時の気分だろ?勘違いしないでくれよ。君が・・・君がウルスと抱き合っていたのを見て、男とキスが出来るかどうか試してみたくなったんだ。だから、した。それだけだ」
捲し立てるように言い切った。痛い痛いと喚き始めた胸の奥を無視して、アメリカがイヴァンの双眸を真っ直ぐに射抜く。
「だいたい俺は君に付き合おうなんて言ってないだろ」
早く俺を嫌いになってくれ。殴っても怒鳴ってもいいから。
「・・・僕、アルフレッド君に何かしたのかな。直せないだろうけど、言ってくれたら頑張るよ・・・だから」
「俺が、いつ・・・君を好きだって言った?」
罵声に似た口調は、吐き出すたびにアメリカの心臓を引き裂いた。
「一度だって」
そう、一度も言わなかった。イヴァンを想う、暖かい心があったのに。
「たったの一度も言ってないだろ」
言えなくなる前に、何度だって言えばよかった。
イヴァンは哀しげに瞳を揺らし、アメリカを見下ろした。たった今吐かれた言葉が信じられないようで息を詰まらせている。
「僕は・・・きみが好きだよ」
「俺は、君に興味がない」
「・・・そう」
すんと鼻を鳴らし、イヴァンはアメリカに背を向け一人でとぼとぼと校舎へ歩みを進めた。風に揺られマフラーが靡く僅かな物音が聞こえる。アメリカはイヴァンの足音が聞こえなくなるまで耳を澄ましていた。
「・・・・・・っく」
息が止まりそうだった。いっそ止まってくれたなら、少しは楽になるのに。膝の力が抜けその場にしゃがみ込む。折った膝の間に頭を埋め、嗚咽を必死で噛み殺した。
「っ、は、は。嘘が下手だねって笑ったくせに・・・、どうだい、俺は嘘が上手いだろう?」