31

 イヴァンを振り切りエントランスホールへと降りる。つま先を通しただけの靴底が不安定にぶら下がっていた。透明なガラス戸が左右に開きヒンヤリとした箱から抜け出すと、むわっとした熱気の代わりに心地よい温かさがアメリカの頬を撫でた。

 驚き瞬いた双眸に映る目立った二つの人影。その周りに、彼らから少し距離を取り傍観者を決め込んだいくつもの人影が描く、歪な半円が見えた。思わず上げた腕にはグレーのスーツが纏わりつき、違和感を覚える視界はいつもより少し高かった。
 不可視のはずの困惑した自分の顔を覗き込みながら、二つの影に目が吸い寄せられる。苛立ちを隠そうともしないイギリスとにこにこと青筋を立てながら笑うロシアが互いに毒を吐きあっていた。

「イギリス・・・っ、ロシアっ」

 駆け寄ろうとしたアメリカの身体が二重にぶれ、黒い型が抜け出し前へ足を踏み出した。目を細めればそれはアメリカ合衆国である自分自身。黒い型は本体を置いてきぼりにしたままロシアに背を向けイギリスの前に立った。
 数メートルも離れていないのに、水をくぐらせたように鈍るイギリスの声音はアメリカまでは届かない。未だ尽きない皮肉の続きを語っているのか、唇が踊るイギリスは手にしたへんてこりんな棒の先を、標準をロシアへ合わせるように持ち上げた。咄嗟にイギリスの不可思議な動作を制するように前へ突き出した手を覚えている。記憶の通りに、あっけにとられ流されるがままになっていたアメリカがハッとしてロシアへ手を伸ばした。

 その途端、ごつんと脳に刺さる音を響かせ明るいシャッターが下りた。


「なにをやっているのさ」
「・・・見てのとおりだよ」

 ソファからずり落ちて床に打ち付けた額をこすりながら、マシューが差し出してくる眼鏡を受け取る。昨夜は寝つきが悪く自室を抜け出してテレビを見ながらソファに横になっていたんだっけ。
 テキサスをかけて起き上がり、少し低くなった視界に再び違和感を覚えた。たった三年、されど三年。これからアルフレッドは成長期をたっぷりと使って伸びていくのだろう。
 リビングを見渡せば、不思議そうに口をへの字にする兄弟が一人いるだけだった。イギリスもいないし野次馬もいない、怒号を飛ばすドイツも、ロシアだって・・・。
 膝がかくんと折れ、ソファに沈み込んだ。

「具合でも悪いのかい?」
「いや、具合は悪くない。夢見が・・・」

 そう呟いて前髪を掻きむしる。あれは単なる夢ではない、アメリカ合衆国の記憶だ。夢というなら、アルフレッドとマシューがいるこの世界こそが真の夢だ。少なくとも、この世界で目覚めた朝の自分なら間違いなくそう明言するはず。自動販売機の前で軽口をたたき合うアメリカとイギリスも、イギリスと会議場でひと悶着起こしていたロシアも現実だ。
 イヴァンのいるこの世界にのめり込み、元の世界を蔑ろにして頭の隅に追いやっていたアメリカへ警告するみたいに、記憶を封じ込めた夢が語りかけてくるようだった。


 片肘を立てた手のひらに顎を乗せ、窓の外を覆う一面の済んだ青い空をゆっくりと泳ぐ雲をぼんやりと見上げた。力強く広がるわたあめのような雲は地に落ちた影を見下ろすばかりだ。無造作に机の上に投げられた腕の下では返却されたばかりの答案用紙が身を寄せ合っている。歓喜と落胆が右往左往して沸き立つ教室内とは裏腹に、うわの空で視線を空に投げ捨てた。
 アルフレッド・F・ジョーンズが試験で何点取ろうが、今のアメリカにはどうだってよかった。いつか元いた、いるべき世界に帰る。はっきりとした確証は何もないのに、漠然とそう信じていた。

 甲高く鳴いたチャイムが一日の終わりを告げ、壇上に立つ先生が二言三言話したのち、ぱらぱらと散っていく学生服に吊られるようにしてアメリカがのっそりと動き始めた。机に乗った赤い丸で埋め尽くされた答案用紙を鞄に詰め込み出入り戸へ向かおうとする背に声がかかった。

「待てアルフレッド!俺ら清掃当番だぞ」
「そう、だったね。マシューに先に帰るよう伝えてくるよ」

 マシューのクラスはちょうど担任の演説が終わったところだった。メープルシロップのように柔らかい色を持つマシューの髪の毛はごった返す教室の中でもひときわ目立ちすぐに見つかった。帰り支度を始めた兄弟に歩み寄り、帰れない旨を伝える。

「分かったよ。フランシスさんたちは・・・」
「約束はしていないんだ。でもフランシスはにやにやしながら試験の結果を聞くために迎えに来るんじゃないかい」

 マシューの言葉を遮り口早に言う。にやけ面のフランシスを凍りつかせるだけの結果は残した、けれどイヴァンには昨日思いきり不審な行動をとってしまったし、今朝の夢のこともあるからなんとなく顔を合わせづらかった。例えばイヴァンに、どうしたのかと聞かれてもアメリカは十分な答えを持ち合わせていない。

「フランシスのクラスは帰りの会が長いから、マシューが三年の教室に迎えに行って俺が当番で帰れないことを伝えてくれよ」

 納得したように頷くマシューを確認したアメリカはアルフレッドのAクラスに戻っていった。



32

「アルフレッドー黄昏てないで掃除しろー」

 使い古された箒を両手で握り締め窓辺に寄り掛かる。
 下校する学生の中にひときわ目立つ三人組が見えた。実際に目立つのは二人で残りの一人は存在感が限りなく薄いが―じゃれ合いながら歩みを進める彼らの中に、自分がいないことが不思議で堪らない。
 マシューやフランシスを妬ましいとはこれっぽっちも思わないけれど、イヴァンの笑みが自分に向けられていないことに焦燥感が募っていた。

「だめだ。アルフレッドは相当テストの結果が悪かったらしい。今だけでも放っておいてやれよ、帰ったらマシューのお説教が待ってるんだから」
「そうだな・・・全く、いくつ赤を採ったらこうなるんだか」

 背中に影を背負い込むアメリカを遠目に、深い同情を示すクラスメイトたちは大雑把に掃除を進めていく。サボりを見逃す代わりに一番面倒くさいゴミ出しをアルフレッドにやらせよう、ハキハキした声でそう言い合っていた。
 薄いブロンドに白い肌、地味な色のマフラーに真っ白なワイシャツ。白で埋め尽くされたイヴァンは今にも埋もれてしまいそうだった。
 ぴんと重力に逆らって立ち上がるアホ毛以外はまっすぐに落ちる自分のブロンドとも、マシューやフランシスのさらりとしたブロンドとも違うイヴァンの髪の毛。隅々まで毛づくろいされた猫の毛のように柔らかくしっとりとして、いつまでも触れていたくなる。

「撫でたいな・・・」

 クラスメイトにも、校門へ向かうイヴァンにも届かない。ぽそりと呟いた言葉は窓ガラスに体当たりして人知れず消え去った。


 掃除当番により僅かにずれた下校時間の恩恵は圧迫感のない電車だった。
 車内に足を踏み入れ数駅だからと吊革に掴まっていたが、立っているのがアメリカだけだったので次第に居心地が悪くなる。吸い込まれるようにして目の前の濃い紫色の座席に腰を下ろした。
 少し肌寒いくらいに効いた冷房と、背中に刺さる太陽の熱がちょうどいい具合に混ざり合って眠気を誘う。ふと気が付けば、辺りにぽつりぽつりといる乗客の頭がのんびりと舟をこいでいた。

 ――今朝の続きだ。
 アメリカはすぐに気が付いた。夢のような、けれども現実だったもの。
今にも二人だけに通ずる怨念が衝突しそうなロシアとイギリス。彼らの間に割り入った、アメリカ合衆国を象る薄暗い影。ロシアもステッキを握るイギリスも、宥め止めようと必死になっている第三者に気づかないわけがないのに丸っきり無視を決め込んでいた。
 ふと、ロシアを見たアルフレッドの姿のアメリカは、マフラーに埋められた唇がもごもごと開閉していることに気が付いた。顔面に笑顔を貼り付けたまま器用に口元だけを動かして何かを囁いている。黒い影のアメリカはロシアに背を向け、イギリスばかりを注視していた。
 イギリスだけではなく、ロシアも何かをしようとしていた・・・?

「ロシアっ」

 ハッと目を開くと、夢の中に戻っていた。相変わらず肌寒くて背中は熱い。頬に流れた汗がクーラーに煽られ、ひどく冷たく感じられた。
 襟元のワイシャツを伸ばして強引に拭う。上手く飲み込めない唾が喉に貼り付き気分が悪かった。ところどころ食い破られたミステリー小説を読んでいるようで、あと一歩がどうしても掴めない。まざまざと見せつけられている記憶が早く気づけと催促しているようだった。

 電車を降りて、マンションに挟まれた街路樹の日陰を歩く。
 繰り返し見せられる記憶に、一つの疑問を抱くようになっていた。思えば、なぜこの疑問を持たなかったのか、今となっては頭を捻るばかりだ。

「俺が・・・元の世界戻ったら、この世界の住人はどうなるんだろう」

 アメリカは元の世界に戻ることばかりを考えていた。
 アメリカにとって、アメリカ合衆国である己に戻ることが最も重要なことだった。それに、戻った後にこの世界がどうなろうともアルフレッド・F・ジョーンズがどうなろうとも、正直に言えばアメリカはそれほど気にしていなかった。
アメリカが消えた抜け殻には、本来のアルフレッドが収まり元に戻るだけだと単純に決め込んでいた。

「この世界が、仮にただの夢じゃないのだとしたら・・・この世界は、本当はどこかに存在していて、そこから俺も・・・アルフレッドも消えてしまうのだとしたら・・・?」

 自然と、日本の家でやったゲームの記憶を思い起こす。
 日本のところだと、こういうとき俺は最初からいなかったことになる、のか・・・それとも俺じゃない俺、空白の時間を持つアルフレッドか。
 いずれにせよ、今のままではいられない。現状維持なんて平穏な道はないことだけが、今のアメリカに分かる確かな事だった。

 ジョーンズ家に着くと、マシューにカバンから取り出したテスト用紙を押し付け風呂にも入らずベッドに潜り込んだ。
 もう一度さっきの続きが見たい、より確かな糸を掴みたかった。自分がどうやってこの世界に来たのか、この世界から消えるときアルフレッドはどうなってしまうのか。
 すべて考え過ぎで、箱を開ければなんてことはないただの夢だった、そうだったらどんなにいいだろう。
 眉を顰めながら、アメリカは暗い“悪夢”に沈んでいった。