29
夢を見た。目を開いて途切れた世界は、クリープをコーヒーに落とし混ぜたように、だんだんとぼやけ数瞬前の記憶を曖昧にしていく。真っ黒な苦い匂いばかりではない、僅かな白が溶けた夢の欠片は、確かに朧げに存在した。
はっと目をやる。カーテンの端が触れ合う先に手のひら大の太陽が落ちていた。そう、これだ。
目の前がキラキラと光っていた。それに隣で誰かが顔を顰めてアメリカを見ている。鏡でアイスブルーをじっくりと覗き込むよりも見慣れた不機嫌な表情。
彼は、イギリス。コーヒーを買う自動販売機の前に並ぶアメリカ、それにロシアの愚痴を零すイギリス。これは、あの夜、あの世界からアメリカが消えた日のこと・・・。
二週間前、実際にあった記憶を頼りに夢を切り開けばどうってことない、ただ再生ボタンが押されただけだった。けれど、ざわつく心臓はどうしたのだろう。頑丈で伸縮性のある胃に氷を貼り付けられたようだ。
鬱蒼とした気分と共に頭を左右に振り払おうと身体を起こし、ようやく気付く。すぐ傍に誰かいた。
「ロシ・・・・・・イヴァン・・・」
渋い思いを堪えるアメリカなど我関せずで、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。瞼をくっつけ、感情の一切を剥いだ肌には、あどけなさの残る少年とも青年とも言い切れない儚さがあった。
つと、罪悪感がこみ上げる。もう少しで、この無垢な肌を欲望で傷つけてしまうところだった。押しとどまれたのはもっぱら奇跡。痛がるイヴァンを目の当たりにしたアメリカには触れ合うだけの性で十分だった。強がりではなく、そう思う。欲に任せ割り入る快楽と、イヴァンに圧し掛かる負担を想像し天秤にかければ血が引くばかり。
起こさないようにゆっくりとベッドから這い出しテキサスを手に取る。二人分の寝返りに耐えられずに足元へ丸まった上掛けを、イヴァンの腹にかけてから寝室を出た。
リビングをきょろきょろと見回せば待ちかねたようにちかちか瞬く携帯電話が視界に入る。着信が二件とメールが一件。画面の中でフランシスとマシューが並ぶが、にやけた笑い顔が脳裏を過ぎりご丁寧にも背筋に悪寒をはしらせてくれたので前者は無視することにした。メールボックスを開くと、マシューから送られた題名がアメリカの開封を待っていた。
『電話をしたけど出なかったからメールしたんだ。もう寝たのかい?フランシスさんが作った二人分のピザトーストがうちにあるから、時間があったら取りにおいでよ。美味しいよ。』
まだ早い時間だからもう一眠りしようと、目の前のソファへ寝転がるために進めた足をぴたりと止める。心なしかいつもより空気が冷たい。ぶるりと震え、温もりを探しイヴァンの眠るベッドを求めた。
「アルフレッド君、そろそろ起きる?ねえ、腕が邪魔だよ」
寝起きには少々痛烈だと嘆きたくなる言葉が鼓膜の奥へするりと抜ける。甘い囁きでなくとも、せめて後半は省いてほしかった。拗ねるように視界を暗闇に置いたまま腕を動かし、ぎゅうと締め付ける。うんともすんとも言わないが、変わりに徐々に重くなる視線を察知したアメリカが、しぶしぶイヴァンを戒めている拘束を解いた。
「よく寝ていたね」
「俺は早起きをしたんだ」
枕に鼻先を埋めるアメリカが少しだけ誇らしげに言えば、ぴんと揺れるアホ毛を一本の指で優しく弾かれた。
「今の今まで寝ていたじゃない。寝る時も、起きた時も苦しかったよ」
その台詞は昨夜の情事を思い起こさせるには十分だった。かっと赤く染まった頬をぐいと枕に押し付ける。
「そうかい、悪かったね」
「ううん、悪くないよ。僕、誰かと一緒に眠るなんて久しぶりで・・・」
ふかふかの綿に吸い込まれるばかりだと思っていた謝罪は、心地よい声音で持って拾われた。昨日は―そう続けようとしたアメリカが喉元で言葉を押しやり口端を結ぶ。ちらりと盗み見たパーピュアの双眸は、昨日のことなんてすっかり忘れてしまったかのように涼やかだった。
どうしたの?視線が絡まりイヴァンが笑う。急に暗くなりアメリカの目と鼻の先に影が落ちた。思わず目を瞑ると、薄い瞼の上に慎ましやかな唇が落ちた。
「おは・・・っ」
アメリカが茹で上がった顔を隠すように、イヴァンの頭の後ろとうなじを捕まえる。引き寄せてみれば簡単に被さってくる柔らかい躰。難なく受け止めキスをして、イヴァンの頬が自分の元と同じ色になるまで放さなかった。
「アルお帰り・・・あれ?イヴァンさんも来たんですか?」
「うん、お邪魔するね」
「なんだい、マシュー。まるで俺ならイヴァンに黙って独り占めするはず、みたいな言い方じゃないか」
キッチンに向かいながら、むくれてマシューに振り返る。
「そうじゃないさ。フランシスさんが昨日、アルフレッドだけ取りに来て、すぐにイヴァンさんの家に戻るんじゃないかって言っていたから」
昨日のといいこれといい・・・目じりを引き攣らせたアメリカを残してイヴァンの方へ駆け寄ってしまう。どうして気づいたのだろうか。それは幾度かイヴァンを前にしてみっともなく狼狽えていたかもしれない。だからと言ってイヴァンとキスをする関係になってからフランシスに会ったのは昨日だけだ。確信を持つには早すぎやしないか。
「あ、これ?」
「そうです。うちで食べるなら温めた方が美味しいですよ。座って少し待っていてください」
「アルフレッド君とは違って気が利くなぁ」
「そういうのは俺に聞こえないように言うものじゃないのかい?」
「わざとだよ?」
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「マシューの分はないのかい?」
かしゅかしゅとシリアルを掻き回す音を聞きながら朝食が進む。マシューの手に握られたスプーンには、黄金に輝くメイプルシロップを纏うシリアルが乗っていた。
「僕はフランシスさんの家でたくさん食べたからね。ああ、そうだ」
ハムスターのように頬袋を膨らませ美味しそうに咀嚼するマシューが、同じような顔で頬にピザトーストを詰め込むアルフレッドに言う。
「誕生日おめでとう」
「・・・っんぐ」
「そうなの?アルフレッド君おめでとう・・・と言う事はマシュー君もおめでとう、だね」
「あはは、ありがとうございます」
「知らなかったから、何も用意していないや・・・」
アメリカの目が無意識にカレンダーへ向かう。七月四日火曜日。
「・・・っ、え、っと、マシューおめでとう」
「ありがとう、アル」
口の中に残っていたトーストを飲み込み、動揺しながらも懸命に顎を動かした。痞えながら言うアメリカを二対の訝しげな視線が捉えるも、それは瞬きの間に消え去る。
この世界で目覚めた朝に、携帯で見たアルフレッド・F・ジョーンズのプロフィールにあったじゃないか。些細な見落としを心の中で叱咤する。突然、そうだ、とイヴァンが声を上げた。
「僕、駅前のアイスをプレゼントするよ。コーンだと溶けちゃうからカップのメープル味、ね?アルフレッド君が一口食べたいって言っていたじゃない。マシュー君もメープル味でいいかな」
「悪いですよ、気持ちだけで・・・」
「いいんだ、僕がしたいんだから。食べ終わったら、ちょっと行ってくるよ」
でも、と口ごもるマシューがアルフレッドに視線を送った。偶然合わさったイヴァンよりも薄いラベンダー色の合図を、承知した、と軽く頷き口を開く。
「俺も一緒に行くよ。俺はカップじゃなくてコーンのやつが食べたいんだぞ」
目を瞠り口をあんぐりとするマシューに、任務達成の晴れ晴れとした表情のアルフレッドが爽やかな笑顔を送り返した。
「・・・もうそれでいいよ」
「また明日ね」
「はい、今日はありがとうございました」
ジョーンズ家を出たアメリカとイヴァンは、太陽が傾き始めいくらか暑さが和らいだ道を並んで歩いた。
「まさか全部食べるとは思わなかったよ」
「美味しかったからね」
露店の前でコーンに乗せらせたアイスを一個、カップに詰められたアイスを三個ずつ。大した値段ではないが、量として見ればそれなりにある。数日は持つだろうと予想していたのに、昼を過ぎ、おやつ時を過ぎ、帰り支度を始めるころには綺麗に兄弟の腹におさまっていた。
昼にマシューが焼いたホットケーキにたっぷりとかかったメイプルシロップを見て、飽きはこないのかとイヴァンはアメリカと同じ悩みを持つことになる。
「わざと忘れたんでしょう?」
昨日から干していた制服を取り込んでバッグに詰めるアメリカが肩越しにリビングを覗く。
「朝はわざとじゃないさ。納得いかないけどフランシスが言ったことは半分当たりで、昼前には戻ってくると思っていたんだぞ」
イヴァンの制服に手を伸ばすと、へえ、と相槌が聞こえた。
「どうしてわざわざ?」
「もちろん下心があるからさ!」
バッグと太陽の匂いがするイヴァンの制服を抱えてガラス戸を閉めた。
「下心がある人は、きみみたいには言わないよ」
「そうかい?」
どさっとソファに置かれたバッグと制服を追う目は次の言葉でアメリカを向かざるを得なくなる。確かめるように、もう一度、と問えばとても単純な作業のように寸分狂わず繰り返された。
「誕生日プレゼントにキスをくれよ。君から、俺に」
もちろん瞼じゃなくてマウス・トゥ・マウスでね、と付け足してイヴァンの目と鼻の先に首を伸ばした。
「・・・その為に忘れたの?」
「Exactly!」
「なんだか寒いよアルフレッド君」
「んなっ・・・」
不貞腐れた胸中にぴったり当てはまる嘆きの科白を探していると、ふいに両目の上にさらさらとした幕が下りた。それがイヴァンの手のひらだと気付く前に、唇がマシュマロみたいな柔らかい感触でいっぱいになった。
触れて、すぐに遠のいた。もっと欲しい、強請るように後を追い目隠しのまま辿り付く。合わさり、離れて、また合わさった。じれったくなる子供騙しのような行為に、アメリカは焦がれた頂に深く口付けた。
気の済むまで貪った唇は赤く濡れ、上がった息を整えながらやっと視界が明るくなる。
「僕も・・・プレゼントをもらっちゃったね」
はにかんだイヴァンを見た途端、ドキドキと心臓が壊れそうになり始めた。限界が近いと訴える胸元を指先で撫でながら不自然なほどに大きく顔を逸らす。
「イヴァンの誕生日はいつなんだい」
なんでもいいからと適当に零した呟きは、珍しく空気を読んだものでアメリカ自身が驚いてしまう。照れ隠しの台詞だとバレバレのようだ、イヴァンの笑みが微かに表情を変えた。
「ふふ、12月30日かな」
「まだまだ先じゃ・・・・・・」
アメリカは口を閉ざした。十二月、まだ半年近く先の一日だ。ざわりと心臓が波立つ。
君に誕生日プレゼントだと言ってキスを送る日、俺はその時までこの世界に・・・いるのかい?
見開かれたスカイブルーにはフローリングの木目模様が映っていた。初恋が成就した甘酸っぱい気持ちが膨れ上がり、大切な事実を隅に追いやっていた。
元の世界に変える方法はどうした?だって、俺は・・・アルフレッドじゃない。
不安が広がり知らず知らずのうちにイヴァンへ縋ろうとしていた手にぎくりとする。
「・・・アルフレッド君?どうかしたの・・・?」
イヴァンがありありと青ざめたアメリカと視線を合わせるように首を傾げた。目先に降りた透き通るアメジストは泣きたくなるほど恋しいのに、身体の中を充満する寒気がアメリカの足を一歩後ろへ引かせた。
「・・・もう帰るよ」
バッグをひっ捕まえるように抱え、別れの挨拶もそこそこにイヴァンの家を飛び出した。
今度は、イヴァンが引き止める間も隙も、これっぽっちだってありはしなかった。