23

 出迎えた顔はただ嬉しそうに微笑んでいた。後ろで組まれた腕は見えないけれど、ともかく蛇口やウォトカといった物騒な類を持っていないことは確かだ。

「こんにちは、アルフレッド君」
「・・・ようイヴァン」

 やっぱりエレベーターの扉の前にいて、イヴァンは無意識のうちにアメリカを驚かせる。昨日のと同じようにイヴァンの背に続いて日陰になった通路を歩いた。どんより曇った空が、今にも泣き出しそうだった。ジョーンズ家を出る直前に、マシューに投げ渡された折りたたみ傘は、使われることなくショルダーバックの一番上に収まっている。出来ればこのまま、ぐずつく一歩手前に留めて欲しいとアメリカは願った。

 リビングに通されソファに座る。もっぱら定位置となった左側に腰を下ろし、飲み物を取りに行ったイヴァンの背を眺めた。グラスが擦れる音が鳴り、氷が転がる。

「マシュー君は何をしているの?」
「・・・試験勉強?」
「ふふ、僕が聞いてるのに」
「それか、のんびり掃除でもしているかもしれない。そして買出しは俺の担当、ほら」

 両手にグラスを持って現れたイヴァンへ、マシューから渡された買い物メモを財布からつまみ出してひらりと掲げる。すっからかんだった財布は、食費用に補給され、本来の役割に戻っていた。両手に買い物袋をさげ、その上、落ちてくる雨粒避けに傘を差すなんて七面倒なことはしたくない。

「へえ、アルフレッド君もお手伝いをするんだね」
「お手伝いじゃないんだぞ!分担さ」

 感心するように言うイヴァンの声音が、さながら小学生に対するような言い草に聞こえ、アメリカは慌てて反論した。

「俺が買って、マシューが作るのさ」

 内心で掃除も、と付け加えるのを忘れない。すると、イヴァンが腑に落ちないといった顔作る。

「ご両親は?」
「え、ああ、言ってなかったね。君と同じく海外へ出張中だよ」
「そうなんだ、じゃあ今マシュー君は一人ぼっちなんだね」
「大丈夫、子供じゃないから駄々は捏ねないさ」

 茶化すように言うと、イヴァンの頬が少しだけぷくりと膨れる。それは一瞬で、すぐに戻ったけれど、双眸に灯った淋しげな色がアメリカの瞼に焼きついた。

「な、なあイヴァン」

 なぁに、とイヴァンがアメリカを見やる。色のない半袖も膝の下で切られたカーゴパンツもロシアとは異なるが、長ったらしいマフラーだけは変わらず首に巻きついていた。同じ目線になり、近づいた白い肌が次の言葉を詰まらせる。

 ―しっかりしろ、アメリカ合衆国。

 何度となく言い聞かせたエールと叱咤が混ざる言葉を自分自身に投げかける。ただのキスが専門の通り魔で終わりたくないし、なかったことにするなど言語道断だ。
 目を閉じて、大きく息を吸って肺を膨らませる。首を這い上がり脳の隅から隅まで酸素が行渡ると、アメリカはイヴァンに向き直りしっかりと目を合わせた。

「イヴァン・・・昨日のことだけど」

 出だしは、それほど悪くなかった。当たり障りなく、アメリカはイヴァンの表情を入念に追う。
 一度目はいきなりだった、二度目も同じく。イヴァンは応えるように口付けてくれたけど、それからの態度は変わらなかった。じゃあ、三度目は・・・。君は受け入れてくれるだろうか。
 煮詰まったような、それでいて真剣な目つきで自分を見つめてくるアメリカに、イヴァンはぱちりと瞬きをした。

「俺、っ」

 ようやく切り出そうと開いた口が、中途半端なところで塞がれてしまう。びっくりして見開いた目に、イヴァンのドアップが映り込む。大きな垂れ目がちのアメジストが、半分だけ下ろされた瞼に見え隠れしながらアメリカの透き通ったアイスブルーをとらえていた。

「・・・・・・いやだった?」

 たっぷりと間をおいてから、俯いたイヴァンがおずおずと尋ねてくる。フリーズし、未だ溶けないアメリカはうんともすんとも反応出来ずに、ぺちりと頬を打たれた。

「っ!痛いじゃないか」
「痛くしてないよ」

 いくらか呆れた視線と溜め息が飛ぶ。それで?と催促され、たじたじになりながらもイヴァンの手を掴み引き寄せた。抵抗なく倒れこんできた自分より少し大きな身体を抱きしめる。

「いやじゃない、いやなわけないじゃないか」

 ぎゅう、と力を込めれば、イヴァンの腕が背中に伝うのを感じた。柔らかなペールブロンドへ鼻先を潜り込ませ耳輪に唇を落とすと、イヴァンがぴくりと体躯を跳ねさせる。背中から胸元に移動した手でやんわりと押され、名残惜しげに拘束をといた。

「ねぇアルフレッド君、僕ね」

 視界に映えた肌はペンキを落としたように一面桃色に染まっていた。キスを降らせたばかりの耳も、睫毛の影が落ちた目元も、歪んで空間が出来たマフラーの隙間に埋まる首筋も、イヴァンの高鳴りが聞こえるようだった。

「きみを想うと胸やけがするんだ・・・どうしてだろうね」

 ふにゃりといびつな輪郭を持った顔がアイスブルーの中に埋め尽くされる。白い前歯を覗かせながら悪戯に笑んだイヴァンが暖かくて、いつの間にかアメリカも不恰好に頬を緩めていた。

 

24

 ゆるりとカーブした顎の先とマフラーの間に指を入れ、ぐいと引き寄せた。より大きく開けたそこへ唇を滑らせる。反射的に強張った胴体を、跨るように押し倒した。
 何度も何度もキスを落とすうちに、止まらなくなる。喘ぎに似た吐息を飲み下すように、イヴァンの唇に重ね合わせた。
 わずかな抵抗は、肩口を掴む指先だけだった。小さく震えた白い手が、アメリカの嗜虐心を刺激する。噛み付くようなキスに変わり、唇の端に溢れた唾液を絡め取っては喉の奥まで捻じ込んだ。

「・・・ん、るふ、れっどく・・・苦しっ」

 息継ぎの合間にもう無理と訴えても、のしかかった体躯が退くことはなかった。それどころか、直に腹をまさぐり始めた手にイヴァンがぎょっとする。

「ま、待って、それはだめっ」

 どん、と力いっぱい押しのける。先ほどまでの可愛らしい抵抗に慣れていたアメリカは、簡単にくじけ押されるままに仰け反った。

「・・・なにするんだい」

 お互いに肩で息をし、熱のこもった瞳でしばし睨み合う。真っ赤になりながら手のひらで口元を拭うイヴァンがアメリカに告げた。

「きみ、子供には手を出さないんじゃなかったの」

 ぴしり、と固まった。
 今、俺は何をしようとしていたんだ。頭のてっぺんから氷水をぶっかけられたように、さーっと血の気が引いていく。目の前の男は恋人になりたてのイヴァン・ブラギンスキで、年は・・・。

「・・・oh」

 でもしたい。元の世界よりもさらに若い身体は、まさしくイヴァンを求めて疼いていた。
 昨日までの自分とアメリカ合衆国のポリスよ、今の俺はティーンエイジャーど真ん中なのだから、許容されるべきだろう。
 苦し紛れにそう念じ、再びイヴァンの髪に手を宛がった。

「アルフレッド君」

 冷ややかな声音にめげそうになるが、そうだと思い出す。

「だって・・・イヴァンは俺の先輩なんだろう?君が言ったことじゃないか」
「後輩面するのは、敬語の一つでも使ってからにしたらどうかな。それに僕、こういうことは夜にしたいよ」

 イヴァンが指差す先を見やれば、先ほどまでのぐずついた天気が嘘のように晴れ始め、日の光が薄手のカーテンを物ともせずに差し込んでいた。つまりは、真昼間から盛るなという遠まわしな否定なわけで。

「今日は泊まらないんだぞ・・・」
「じゃあ次の機会だね。それよりきみはやることがあるでしょう?」
「?」

 小首を傾げたアメリカに、今度こそ深い溜め息を吐いた。

「試験勉強だよ。僕は一応、きみの先輩なんだから、試験前日にきみを遊ばせるわけにはいかないでしう?万が一にも赤点をとって、マシュー君に僕と遊んでいたからだって嫌われたらいやだもの」

 明らかに、アメリカの赤点自体よりも、マシューに嫌われることを恐れているイヴァンに気づき、目尻の皮膚が引き攣る。同時にロシアはカナダを気に入っていたっけ、と脳内が勝手に検索を始めていた。

「イヴァンは余裕綽々じゃないか、大切な試験じゃないのかい」

 三年生、夏前とくれば、進学のために重大な内申書へダイレクトに影響する試験だ。いくら普段からこつこつとタイプとはいえ、もう少し焦慮の色を見せてもいいはず。
 ハッとして、今更ながら焦り始めた。イヴァンではなく、アメリカが、だ。相変わらず涼しい顔のイヴァンは、自分のことよりも“アルフレッド”の点数を心配していた。

「俺、もう帰ろうか?」
「・・・帰っちゃうの?」

 恐る恐る尋ねれば、心底残念だという顔で淋しげな声が返る。帰らなくていいのだろうか。

「・・・分からないところがあれば、教えてあげるよ?」

 こっちの台詞だよ!とは言わず、引きとめているのだから本当に構わないんだろうと判断し、イヴァンの言葉に素直に甘えることにした。
 試験を受ける気があるのかないのか、終始アメリカの形だけの勉強を見やる先輩面のイヴァンに首を捻るも、時折手をつないだり近づいた唇に舌を這わせたり、まるで精神的にもティーンエイジャーになったかのような恋人との触れ合いに、満更でもない様子のアメリカだった。


 両腕に買い物袋を提げ熟年の主婦の出で立ちで住宅街を闊歩する。いつもいつも買い物メモより少し多めに渡される金額は、アメリカとマシューのお菓子用だ。
 手元に視線を送れば、目一杯に膨れた半透明の袋が、所々角張りパッケージが浮き上がっていた。パワフルなデザインが、強い日差しに負けじと反射してぴかぴか光る。マシューもマシューで甘いお菓子が大好きなので、買い置きがなくなると困るのは、アメリカと同等に深刻な問題だった。

 ほどなくして家に着いた。静まり返ったリビングの前に買い物袋をどさりと置いて、半分開いた扉へ首を突っ込み兄弟の不在を確認してから二階へ向かう。自室で寝こけているであろうマシューを起こすためだ。
 机の上に教科書やノートがざっくばらんに広がっていた。参考書に挟まる付箋の色が赤や白ばかりなのを認め、思わず口元が綻ぶ。彼ら―マシューやカナダたちは違う存在だけれど、どこかしら繋がるものがあった。

 夕食の準備を始めたカナダが、昼間の出来事を思い出しては緩んだ筋肉ではにかむ同じ顔をした兄弟へ、怪訝な視線を寄越すも詳しく問いただそうとしないのは、巻き込まれたくないのかプライベートを守っているのか微妙なところだった。アメリカの方は、聞かれずとも打ち明けたかったが、相手がイヴァンだということをすんでのところで思い出しては口を閉ざし、うずうずしている。
 急がずとも、恋人の元へ通うための言い訳が尽きないうちに言えば十分だ、のんびりと、そう思った。