21
瞼を上げて見慣れない天井をぼんやりとした視界におさめる。相変わらず無機質な匂いを吹き出す空調が不快な熱をシャットアウトしてくれたおかげか、寝汗一つかいていなかった。
ずり落ちながらも、なんとか腹へ引っ掛かったタオルケットを押し退けながら上体を起こす。テキサスと携帯に手を伸ばし四桁の数字を表示させれば、普段の休日であればまだまだ夢の中にいる時間だった。テキサスをかけたまま、ぼふんとクッションへ後頭部を沈める。
「イヴァン」
無意識に漏れた囁きを抑えはしなかった。
もしかしたら、昨日の朝、自分はアルフレッドのベッドから出ずに眠り続けているのかもしれない。そんな馬鹿げた仮説を立て、大真面目に検証を始めた頭を左右に振る。たった一日前に己が持っていた最も大きな問題は、拍子抜けするほどあっさりと解決してしまった。それも、イヴァンの了承を伴って。
「・・・あれ」
ようやく重要な何かを置いてきぼりにしていたことに気付き、アメリカは瞠目する。思わず飛び起きたアメリカのかかとが、硬い床を叩き鈍い音を啼かせた。
親しい友人のように会話をし、キスをして、夕飯だって一緒に食べた。それに部屋は別だが一つ屋根の下で一晩過ごすことを許された。でも。
「俺のこと、どう思っているんだ」
うろうろとソファーの周りを徘徊しながら頭を抱える。常であれば着実に踏む段階を色々とすっ飛ばし、半ば無理矢理と言っても過言ではないキスをしてしまった。イヴァンは驚いていたけれど、構わないと言っていたし嫌がる素振りはなかった・・・と思う。言い切れない事実に歯がゆさと焦りを感じた。そうだ、嫌がらないことと受け入れることは必ずしもイコールではない。
「Oh my God」
心なしか数分前よりも冷え切った空調が嘆きにも似たぼやきをさらう。
「アルフレッド君?」
僅かに擦れた甘い声が聞こえ、びくりと肩が跳ねた。ばっと声がした方へ振り向けば、訝しげな顔が覗く。パジャマのまま、イヴァンがあくびを押し殺してダイニングの中央へ足を進めた。
「足音がうるさくて目が覚めちゃった。こんな朝早くにどうしたの?」
まだ六時前だよ、と続けたイヴァンがカーテン越しの朝焼けに目を向けた。
眠気を纏いぼけっとしているイヴァンから焦点をずらし、アメリカは焦燥感に駆られあたふたとうろたえる。混乱したまま、何でもいいから言わなければとやきもきした結果、挨拶すら忘れて無為無策に出てきたそれはアメリカ自身を驚かせた。
「イ、ヴァン、その・・・俺、帰る」
「え・・・」
咄嗟に出た台詞は完全にアメリカの思考が抜け落ちたもので、勢いのまま口先が勝手にしゃべり出す。
「もう明るいし、マシューが心配してるかもしれないだろ。それに、ほら着替えも、コーラだって飲みたいんだぞ」
捲くし立てるように一呼吸で言い切ると、携帯と財布をポケットに捩じ込み足早にイヴァンの脇を通り抜けてまっすぐ玄関へ向かった。
「・・・ん?ちょっと、ねぇアルフレッド君っ」
一拍遅れて我に返ったイヴァンは慌てて後を追いかけ、玄関のドアノブを掴むアメリカの腕をぐ、と捕まえた。アメリカはつるんとした無地のドアを凝視したまま、己の腕を掴むイヴァンに手を添える。
「昼にまた、来るから」
なんとか一言だけ胃の底から絞り出す。いくらか力を入れれば、大した抵抗もなく拘束が解かれた。
真夜中と同じくらい、否、以上に不気味な道を歩きながらアメリカは顔を歪ませる。すっかり明るくなった空と、対して人っ子一人見当たらない陰影が、追い討ちをかけるように不安を煽った。
不自然極まりない行動を思い浮かべ、いつもより多くの水分を含んだ外気に蒸された脳が、先ほどから繰り返し厳しく叱咤し続けている。上司から頼まれた仕事をすっかり忘れ、新作のゲームで一晩丸々潰した時でさえ上手く立ち回れたというのに。
見慣れたジョーンズ家が見えてきて、やっとのことでプチパニックから脱出したアメリカは、己の間抜けな行動を思い出し、立ち止まって暫く呆然とした。
「だいたい、いきなりキスされたのに、ちょっとだけ照れた後はいつも通り、なんておかしいじゃなか。まるで・・・っ」
勝手にキスしたことは棚に上げ、眉を顰めて小さく呟かれた言葉は、喚き散らす蝉の声と溶け合いめげるかの如く語尾を消し去った。無音のまま耳に届いた声を聞き、アメリカは気が気でなくなる。今すぐにでも引き返して問いただすべきなのか。
君は俺が好きなのかい?まさか・・・まさか何もなかったことにしようなんて、これっぽっちも考えてないだろう?弱気に切望する問いかけが心の中でいくつも浮かび、さながら哀愁漂うシナリオを突きつけられた気分だった。
咄嗟に踵を返そうと太ももに力を入れるが、それと重なるように一際甲高く啼いた蝉がストップをかける。途端、白い靄がかかっていた視界が急激にクリアになった。
「・・・しっかりしろ、アメリカ合衆国」
重厚な輪郭で象られる名前が、アメリカの心臓に杭を打った。
22
打ち付けるシャワーが足元でぱしゃりと跳ね上がり、ぬるい水になり果てたいくつもの粒が柔らかくアメリカの瑞々しい肌を叩いた。白く曇った鏡を湿った手のひらで拭いながら覗き込み、間近にスカイブルーを映す。
―しっかりしろ、アメリカ合衆国。
代わり映えしないパーカーに頭を潜らせながらバスルームを出てキッチンへ向かう。冷蔵庫を空ければ、火照った熱を冷ますように凍える風が頬を撫でた。キンキンに冷えたコーラを取り出し勢いよく呷る。食道を通った炭酸がせり上がる感覚は慣れたもので、喉の奥で塞き止め再び飲み込んだ。
昨夜のイヴァンの家にいた自分と重ねるように、ソファへ寝転がる。白地の天井なんてどれも大して変わらないはずなのに、今はやけに狭く思えた。目を閉じても、明るく差す朝日が暗闇を許してくれなかった。
高らかに豊富だと謳えはしないが、乏しいと卑下するほどでもない恋愛経験が乱雑に収まる引き出しを上から順に開いていくが、これと言って目ぼしい掘り出し物は見つからない。そもそも今までとは恋愛対象の性別が異なるのだ。ましてや同姓にいきなりキスをされてどう思うかなんて想像もつかなかった。
半分ほど減ったコーラを、ちびちびと飲みながら時計の秒針の旋律を聴く。一定のリズムで奏でられ、それに重なるようにアメリカは自分の心音を感じた。
「はぁ」
「あれ、帰ってたんだ」
吐き出した溜め息と呼応するように背後から声がかかる。いつの間にか空になったペットボトルを握り、ぼんやり視線を空に投げていたアメリカは、頭上に影を作るマシューを見上げた。
顔だけ見れば鏡写しのような兄弟。メガネのフレームも髪形も作り上げる表情だって全く違うのに、それらを取っ払った奥にあるものはどう見てもアメリカのものと同質だった。よく似た顔に、悩みの類は見当たらない。寝起きの、それも普段よりいくらかすっきりしたマシューに、思わず嘆き出したくなる喉を必死でやり込めた。
「・・・後でまた行くよ」
また?とオーバーに驚くマシューが訝しげに腕を組む。それは、アメリカにとってよくない兆候だった。
「明日が試験の最終日だってことは覚えてるかい?それなのに、また行く?中学の頃から決まって一夜漬けじゃないか。今回はそれすらしないって言うのかい?」
一々棘のある小言攻撃の序章を開いてしまったアメリカはハッと気づく。当たり前のようで、しかし、重要なことだ。マシューが心配しているのは、自分ではなく“アルフレッド”のことだ。
「今回は大丈夫さ。ハンバーガーをかけてもいい」
「君はいいとしても、イヴァンさんは?昨日だってイヴァンさんの迷惑を考えず無理やり泊まったんだろう?」
「イヴァンは大丈夫だって言ってたんだぞ」
「気を利かせてくれたんじゃないのかい」
表情を崩さないまま淡々と問い詰められとうとう、うっ、と言葉を詰まらせた。イヴァンの部屋から逃げ出す直前、確かに昼に行く約束をしたけれど、それはアメリカが一方的に押し付けたものだ。昨日はアメリカの為に時間を割くことを受け入れたが、今日については知らない。
「だいたい君はいつだって考えなしで動くんだから」
最後通牒よろしく突き付けられた決定打に頭を垂れるしかない。俺以外にはほんわか対応のくせに。愚痴を零しながらのろのろとメールを開きボタンを押した。
『昼に行くって言ったけど、明日の試験をすっかり忘れていたんだぞ』
送信ボタンを押し、不貞腐れた顔で意味もなく携帯を開閉した。ぱき、ぱき、と突っかかる音が繰り返され無意識のうちに、眉間に縦線が一本。
アメリカの体感では一時間以上、のんびり屋のマシューは五分くらい。つまりは二、三分ほどで返ってきたイヴァンの手紙を受信した携帯が、アメリカの荒んだ心中をまるで無視して意気揚々と謳いだした。再び、のろのろとボタンに指をかけ力を込める。
『うん。待ってるよ、一緒にお勉強しようね』
思わず二度見した内容は一度目も二度目も、まさしくアメリカの誘いに乗るメールだった。キスする前となんら変わらない対応にはこの際目を瞑り、心持ち鼻を高くしてマシューに見せつける。どうだ、とまるで満点のテスト用紙を母親に見せる子供のようなアメリカに一瞬しかめっ面を作るが、マシューはすぐさまそれを一掃して肩をすくめた。
「僕のお節介だったみたいだね」
実際マシューの指摘はほとんど的中していた。ただ一点、イヴァンもアメリカと会いたがっている、を除いて。
「全くマシューは心配性だな」
にっこりと笑いながら晴れ晴れとした顔で言う。それを君が言うのかい。はぁ、と肩を落としたマシューのぼやきは、アメリカに拾われることはなかった。
昼が近づき、アメリカは出かける準備を始めた。今日も泊まるのかと問われたが、薄っぺらい財布を開いてみても、あいにく二回目の夕食を買えるだけの蓄えは残っていない。咎めるような視線を財布に送るが、これが精一杯なのだと突っ返された。
シリアルを限界まで胃に詰めたアメリカが、昨日と同じく手ぶらで出かけようとしたところでマシューから刺すような冷たい視線が飛び、慌てて形だけの試験勉強道具をショルダーバッグに押し込んだ。