19
画面に広がる鮮やかなイエローへ食い入るような視線を送るイヴァンを、眼孔に嵌ったアイスブルーの球だけでチラリと見上げた。
唐突だったと思う。確かに空気が読めないけれど、アメリカは魯鈍ではない。彼の不自然な間と半ば強制的な遮断にはっきりと気がついていた。理由はそれだけではない、イヴァンはそう言った。けれど、理由については話したくないのだろうか。ジョチ・ウルス。創立記念日に記憶した悪夢から半分だけ脱した現実と、アメリカの状況判断を掛け合わせた答えは彼だった。きっと、たぶんそう、ウルスと何かがあって家を出た。
イヴァンに同じく、アメリカはテレビに視線をやった。特別貴重でもない花の成長過程などに好奇心はそそられない。瞼を半分下ろして、投げ出していた肩膝を立てて腕と顎を乗せた。どっかりと腹に溜まった夕飯が中枢神経を侵してブロンドの下に潜む脳を麻痺させる。眠ってしまっても隣に座る彼はきっと怒らないだろう。
薄いモザイクがかった視界に映る暈けた黄色が知らず知らずのうちにロシアを思い出させた。
飾り気のない地味な色を纏い上から下まで素っ気ない装飾で、けれども、瞼の裏にのっそりと現れた彼の腕に大輪のひわまりを添えれば、引き立て役に抜擢されるのはなぜかひまわりの方。ロシアは背景に写る花瓶ではなかった。
「・・・・・・レッド君」
「アルフレッド君」
つむじの辺りへ囁かれた滑らかな声音に鼓膜がゾクリと震えた。それと同時にポケットが静かに振動している。
「・・・ん、あれ・・・」
指先を眼鏡の下から潜らせて目元を擦る。ぱちぱちと瞬きしながら、アメリカを催促する二つの音の片方を選び辿った。
「あ、起きた」
存外近すぎる位置にある弛んだマフラーを視界に捉えた瞬間、つやつやの金糸が大きくなびいた。
仰け反るように身体を起こしたアメリカの頭が、ごつ、といい音をさせてイヴァンの額にぶつかり、しばし両者とも痛みに耐える体勢をとる。アメリカは左手で頂頭部を、イヴァンは右手で顎の下を覆って皮膚の下でジンジン響いてくる熱が通り過ぎるのを待った。
「携帯、鳴ってたよ」
先に口を開くのは今度もイヴァンだった。既に過去の出来事になった用事を伝え、そこ、とパーカーにひっつくポケットを指差す。それに反応するように再び振動し始めた携帯電話を取り出しながら、ごめん、と謝って小さな小窓を覗き込んだ。着信:マシュー。ぱかり、と開いて通話ボタンを押そうと親指に力をこめる一瞬の間に、アメリカはおかしなことに気付いた。
「11時?」
液晶画面に示された数字が四時間の空白を作っていた。それと、もう一つ。
「手・・・」
いつの間にやら繋がれた右手が、アメリカの僅かな自由を奪い器用に耳だけ発熱させた。真っ赤になった耳から煙でも燻らせそうなアメリカを見て、イヴァンは慌てて拘束を解きつつ眉をいつも以上にハの字にした。
「ち、ちが、うよ!」
何が、だろう。自分に突っ込みを入れながらイヴァンが首を大きく左右に振った。パクパクと酸欠の魚みたいに唇を開閉させてから、おそるおそるアメリカの右手に左手をもう一度重ねた。
アメリカは反射的にぎゅうっと力いっぱい握り締めて、瞠目し脳内を警戒音が一巡してから息を吐いた。そうだ、今の自分はアメリカではなく、アルフレッド・F・ジョーンズだ。力いっぱい握っても、幼い彼の手がひしゃげることはない。
アメリカはイヴァンが子どもだということ以上に、己が未知の世界に入り込んでしまっていることを忘れがちになっていた。イヴァンを意識すれば意識するほどその傾向は高まり、ふとした瞬間、己がアメリカという名前の思春期真っ只中な高校生になってしまいそうだった。
途端に背筋へ冷たい汗が伝う。俺は、アメリカ合衆国。アルフレッドじゃない。俯き眉間にしわを寄せながら、アメリカは小さく喉を震わせた。
「・・・電話いいの?マシュー君でしょ?」
優しく降ってきたイヴァンの声にアメリカの躊躇いが微かに薄れた。今だけ、少しだけでいいからこの悪夢に浸かっていたい。初めて湧き立った強い感情にアメリカ自身が戸惑いながら、誤魔化すように重なった手を引き寄せた。シトラスが香るイヴァンの首元に鼻を押し付けて、下唇を噛み締める。
「アルフレッド君・・・マシュー君、きっと待って・・・」
イヴァンの言葉は心臓の裏に貼り付く、根源が全く異なる罪悪感を引っ掻かれているように錯覚させた。次の台詞を聞きたくなくて、噛み付くようにイヴァンの唇を奪う。間近に映るアメジストはすぐに小さな驚きを潜め、応えるように唇を押し返した。
薄く開いた咥内へイヴァンが柔らかい舌先を滑り込ませ、繋がりを深くしようとアメリカが身を乗り出した刹那、腹の上で第三者が振動した。すっかり意識の蚊帳の外へ放り出していたそれに思わぬところに力が篭ってしまう。
「っい」
咎める双眸がじろりとアメリカを見た。たった1秒で30センチは後退した唇に名残惜しさが募るが、次は自分が故意に噛まれる番になると口端を歪ませて我慢する。
「・・・わざとじゃないんだぞ」
「わざとだったら今頃そこの窓から投げ捨ててるよ」
君を。アメリカはばっさりと振り下ろされた辛辣を甘んじて受け入れた。
20
それから、他所よりも敏感な末端を噛まれ痛みに顔を顰めるイヴァンを見て「そんなに痛いなら舐めてあげるよ」とのたまったアメリカの額へ強い打撃が加わるのに、それほど時間はかからなかった。
立ち上がり、そそくさと夕方と同じようにガラス戸へ寄って携帯電話を取り出した。ぐ、と顎を上げれば、薄っすら暈を被った半月が覗く。ギラギラ照りつける憎たらしい太陽とは正反対で、アメリカを炒め物にする気はないようだ。
背中にはとげとげと磨き上げられた紫色の視線が絶えず突き刺さっている。親切心から言ったことへ、これほど腹を立てられるなんて心外だ。赤くなっているであろう額を擦りながら、コールが途切れるのを待った。
「――OK、ちょっと待って・・・イヴァン、はい」
差し出された携帯電話を訝しげに眺めてから受け取る。耳たぶにアメリカの体温で温まった機体の感触がすれば、すぐさま霧がかった高い声が聞こえてきた。
「本当にいいんですか?迷惑じゃ・・・」
「迷惑?」
「あれ、アルが今日はイヴァンさんの家に泊まるって」
「え、聞いてな」
割り込んできた手に携帯電話があっさりと奪われた。
「そういうことだから。おやすみ、マシュー」
「ちょっと待ってくれよ!イヴァンさんに了承を得ていないんじゃな」
受話口から零れてイヴァンまで届くほど喚きたてるマシューの必死な声は、無情にもぶつりとワンプッシュで切られてしまった。切った本人は飄々とした表情で、まるで何事もなかったかのように振舞う。
アメリカにとっては、マシューへイヴァンの家に泊まると伝えたし、マシューがイヴァンと話がしたいと言われたので代わったし、そのついでにイヴァン自身にも彼の家に泊まることを伝えたのだから、別段気にかけることは何もなかったと同じだ。
「・・・きみ、泊まるの?」
「いいだろう?もう遅いし、帰るのは・・・」
不自然に途切れた言葉の先を、イヴァンは正確に読み解いた。わざとらしく薄目になった目元と呆れたように吊り上げた口端から、アメリカは腕を組んでぷい、と目をそらす。
「夜道が怖い?」
胸の前で交差した指がぴくりと動くがアメリカの肯定はなかった。考えてみれば、閑静な住宅街を抜けるには、両腕に芽吹いた大量の葉音を靡かせる樹木が立ち並ぶ歩道をひたすら歩くしかない。所々に街灯があるものの、この時間だと戸々の暖かな灯は期待できないし、仕事帰りのサラリーマンだって中々擦れ違うことは出来ないだろう。
「イヴァンと一緒にいたいんだよ」
どうにか喉の奥から捻り出すように言えば、白い頬に笑みを作り満更でもない表情で、誤魔化されてあげるよ、と一言返る。
「アルフレッド君の寝るところは・・・」
イヴァンは一人暮らしだ。ベッドだってもちろん一台だけ。自分の我が儘で泊めてもらうのだから、遠慮するなら寝床くらいだと頭の中で答えたアメリカが口を開く一瞬前に、ことはすんだ。
「床でいいよね」
「what?」
「あ、ソファにする?」
「・・・・・・」
余分な上掛けはないけどタオルケットならあったはずだから探してくるよ。そう言い残してさっさとダイニングを出て行った。膝を前に突き出すように折って尻を床に近づけたアメリカは、悟った目で小さく呟いた。
「ロシアはそういうやつだよな」
己の中にあった曖昧になったままのロシアの像が少しだけ確かなものになり、嬉しいんだか哀しいんだか。複雑な胸の内を労わるように目を閉じた。
「どうかしたの」
いつの間にか戻ってきたイヴァンが両手にタオルケットと大き目のクッションを抱えてアメリカを覗き込む。肩を竦め、なんでもないと意思を表示しふかふかの塊を受け取った。
「着替えがないから、お風呂はいいよね?汗かいてる?」
微塵も隠さず面倒くさそうに言うイヴァンに、むくむくと意地悪したい気持ちが膨れた。
「一緒に入るかい?」
さらりと言ってのければ、髪の毛と同じ色の細長いペールブロンドに縁取られたアメジストが微かに狼狽する。してやったりとアメリカがニヒルな笑みを作りながら続けた。
「心配しなくても、子供には手を出さないよ」
するりと出た自分の声がアメリカの耳に届くとの同時に、イヴァンは呆気に取られたように目の前の男へ間抜けな顔を向けた。
「・・・お言葉だけどねアルフレッド君。きみよりは子供じゃないつもりだよ」
今度はアメリカの顔が歪む。そうだ、自分は三桁歳だけど、アルフレッドはイヴァンより一歳年下だった。
合衆国であるアメリカの外見が、ぎりぎりティーンエイジャーだったとはいえ、たかだか一六、七歳の未成年に手を出すのは、両脇にマシンガンを抱えながらポリスの溜まり場へ突入するようなものだ。
「僕はお風呂に入って寝るから、きみも早く寝るんだよ」
ぽいぽいとクッションとタオルケットをソファに投げる。綺麗に収まった簡易ベッドに満足すると、踵を返してダイニングの扉へ向かうイヴァンを咄嗟に呼び止めた。
「イヴァン」
なあに、と肩越しに振り向く。
「Good night」
きょとんとした双眸が、瞬きをしてからふわりと笑った。
「おやすみ、アルフレッド君」