17
出来合いの惣菜が詰められていたパックはほとんど空になり、アメリカはデザートに手をつけていた。プリンの蓋をぺり、と剥がしながら黙々と咀嚼を続けるイヴァンに視線をやる。
これっぽっちも見栄を張った訳ではないのに、ソファの前に置かれたテーブルに広がる空っぽの容器によって、アメリカの財布は大打撃を受けてしまった。割り勘で同じく財布を軽くしたイヴァンは飄々としていたのが、少し悔しい。ちらちらと伺うような視線に気付いたのか、イヴァンの顔がそろりと上がりアメリカを見返す。
「自分のお家で誰かとご飯を食べるなんて・・・凄く久しぶりだよ。楽しいね」
ふんわりと笑んだ頬に翳る憂いが見えた。落ち着いた雰囲気にアンバランスな十歳近く若返った容姿によって、ついつい忘れてしまいがちだけれど彼はまだ子どもだ。高校三年生に向かってお前は子どもだと宣言しようものなら猛反発される事は必至だが、数百年生きたアメリカにしてみればイヴァンはまだまだ生まれたばかりの子ども。幼い容姿を伴う言動が酷く頼りなかった。
「一人で暮らしているんだろう?家族は・・・」
スプーンで突いたミルク色の牛乳プリンがやんわりと凹む。元の世界でも、この世界でも、アメリカの周りは賑やかだった。確かに家に篭って周囲を遮断してしまえば、一人きりになれる。しかし、アメリカ自身が望んで一声かければ、瞬く間に大きなパーティー会場をハイテンションな知人で溢れ返す事が出来た。
ふいに、猛吹雪の中に佇む古い巨大な屋敷に閉じ込められたロシアが思い浮かんだ。ぱちりと爆ぜる暖炉だけが灯る薄暗い中、何をするでもなくひっそりと息を潜めてロッキングチェアに腰を掛ける彼。想像の中のロシアに思わずぞっとした。なんでもないような顔をしながら、一人は嫌だと涙を流さずに泣いているように見えた。
「両親は海外、叔父の家に姉と妹がいるけど、僕だけここで暮らしてるんだ。先月まで僕も叔父の家で暮らしていて、そこから高校に通っていた。そんなに遠くないよ。姉さんにも妹にも、会おうと思えばすぐに会いに行ける」
「一人で淋しくないのかい?」
「どうだろう・・・一人は慣れてるよ。でも、強がってるだけなんだと思う」
「怒るかな、アルフレッド君といてもフランシス君といても、今の僕は一人ぼっちだ」
こんなに近くにいるのに、なぜそんな事を言うのだろう。手を伸ばせば白い頬にも手持ち無沙汰な指先にも容易く触れられるのに。まるで、アメリカを拒絶されたようで、無意識のうちに顔を強張らせていた。
独り言だから忘れて、そう付け足したイヴァンの表情からは哀しさしか読み取れなかった。そんな顔は見たくない。イヴァンがこっちを向けば問題は解決するんだ。俺がいるんだから、一人ぼっちになんてなるはずないだろう。そこに同情はなかった。アメリカ自身のエゴで、彼を一人きりにしたくなかった。
―ああ、なんて簡単な答えなんだろう。俺は、イヴァンが好きだ。だって、こんなにも。
頭より先に心が動き、心が命令したとおりに体が動く。伸ばした手はイヴァンの腕を捉え、ぐ、と力を込めれば真っ白な頬から哀愁が一掃された。
「アルフレッドく・・・」
ぼんやりとした視界が、だんだん狭まり繊細な凹凸を描き始める。驚愕に見開かれたアメジストへ引き寄せられるように身を任せれば、アメリカの唇が、柔らかな感触を確かめながらやわやわと食んだ。ふ、とイヴァンの鼻先から小さく漏れた音に、アメリカの振り切れていた理性が戻ってくる。身体を離し、咄嗟に手で口元を覆った。
「お、おれ・・・」
何をやっているんだ。思い出したくもない悪夢が走馬灯のように目の前を駆け巡った。
背の高い男、抱き寄せられるイヴァン、大した抵抗もなくキスを受け入れた。
悪夢を掻き消すように瞬きを繰り返した。アメリカが次の言葉を吐く前に、呆然と固まっていたイヴァンが口を開く。
「からかってるの?」
「違う!」
短く否定を叫ぶ。断言できた。アメリカはイヴァンに触れたかったし、キスをしたかった。湧き上がった欲求に待ったをかけることなく、いや、待ったをかけようとも思わなかったなのかもしれない。独り善がりな衝動に任せきった事へ、どっと後悔が押し寄せた。
「ごめん、謝ってすむことじゃないけど」
「・・・別に構わないよ」
確かにイヴァンの声だった。ただでさえ成長しきっていない高い声が、照れているのか微かに上ずっていた。返った言葉が信じられなくてイヴァンを見れば、ほんのりと上気した頬の上で紫色の玉がきょろきょろと忙しない。
「だって君・・・恋人が」
慎重になる言葉選びに、口調がたどたどしくなる。
「え、恋人?何のこと・・・」
先ほどとは一転、怪訝な声を出したイヴァンの表情が心底理解不能だと訴えていた。
「創立記念日の日に俺、見たんだぞ」
「あぁもういいよ、分かったよ。それ以上言わないで」
今度は呆れたような声。くるくると七変化する雰囲気にアメリカはとっくに置いてけぼりだ。
「ジョチ・ウルス」
「じょちうるす?」
そうだよ、と一呼吸おいてからアメリカに呼応するように続けた。
「僕の、叔父」
18
「・・・元々住んでいた家はね、遠くないとはいっても高校に通うには不便なところだったんだ。だからお試しで夏休みまでこの部屋を借りて一人暮らしをしてるんだよ。ウルスはまだ高校生なんだから一人暮らしは早いって反対したけど僕がゴネてね」
イヴァンには姉と妹、それにジョチ・ウルスという叔父がいて、先月まで彼らと共に住んでいた。
「妹はまだ中学生だけど僕がいなくても、ウルスや姉さんがいるから心配は要らないし・・・」
イヴァン自身が望んで、彼は一人ぼっちになった。なのに、彼の表情は優れない。暖かい家を抜け出し、寂寥が募る心をほったらかしにしたまま。懐かしそうに話す声音が涙で湿っていない事がアメリカには不思議で堪らなかった。
「まあ、理由はそれだけじゃないんだけど」
「なん・・・」
ぼそりと呟かれた声。呼応するようにアメリカが口を開くが、言い終わる前に、無造作にソファへ放ったままの携帯がけたたましく鳴り出した。
たった今まで、それなりにシリアスな雰囲気だったと思う。けれど、歌い出した着信音は、よりにもよって兄弟用に設定したアニメソング。イヴァンへ目配せをし、肩を竦めながらこくりと頷かれてから受話器のマークをプッシュした。Hi、フランシスの家にいるであろうマシューへ声をかけながら立ち上がり、吐き出し窓へ歩み寄る。
ようやく傾き始めた太陽が本日、最後の余力でギラギラとレンガを敷き詰めた歩道を照りつける。ガラス戸一枚を隔てた向こうでは、汗だくになりながらはしゃぎまわる子供を優しげな眼差しで見つめる母親がいた。携帯電話から噴き出すマシューの声と、聞こえないはずの子供の声と半々に耳をすませながら、意識は背後へ飛んだ。
イヴァンの姉妹とは、十中八九、ウクライナとベラルーシだろう。それに、ジョチ・ウルス。聞き覚えのある名だ。アメリカの中にある名称との繋がりは、ロシアが幼い頃に身を寄せていた、とだけ。イヴァンの翳った表情と淋しげな語り口調は、彼らの仲が決して単純ではないことをアメリカへ示していた。
否が応にも勘繰り始める胸中を止めることは出来ず、もんもんとしながらぬるまってきた携帯を握り直す。アメリカにとって叔父といえば、イギリスやフランスやフィンランドあたりだろうか。彼らと一つ屋根の下で暮らす自分を想像して思わず頭を振った。
「アルフレッド、聞いてるの?夕飯はどうするの?もしも食べるものが全くないなら、残りを貰って帰ろうか?」
「あ、ああ。大丈夫さ、イヴァンと一緒にもう食べたよ」
「そう。フランシスさん、アルはイヴァンさんと食べたって」
受話口の向こうで、フランシスの声が遠くに聞こえた。彼の手料理がそこにあるというだけで、食べ終えたばかりの胃が次の受け入れ準備を始める。口を歪めながらとん、とへその上を一度だけ軽く叩いた。
「じゃあね、アル。僕はもう少しこっちにいるからね」
「俺もまだイヴァンの家にいるよ。Bye」
通話を切り、マナーモードにしてから二つ折りに畳んで携帯電話をパーカーのポケットに押し込んだ。
右の踵を重心にして半回転したアメリカは、びくりと肩を揺らした。寸分狂わず同じところへある身体は、顔だけが窓辺に向けられ中央に嵌った対の紫色がアメリカをじっと見つめている。もしかして、マシューと話している間も、ずっとこうして自分を見ていたのだろうか。急速に上がってきた熱を確かめるように、手の甲を頬へ押し付けた。
「マシュー君?」
変なポーズを取るアメリカを見上げたまま首を傾げる。
「まだフランシスの家でのんびりしてるってさ」
そこまで言って、数刻前を思い出した。兄弟によって遮られた問いかけは未だ頭の中だ。
アメリカが通話を切るまでにデザートまで綺麗に食べ終えたイヴァンが、スーパーの袋を引き寄せて片づけ始める。捨てるだけの片付けはあっという間に終わり、テーブルにはアメリカのジンジャーエールとイヴァンのストロベリーティーだけが乗っていた。
礼を言いながら元いた場所へ腰掛ける。共に口を開かず、ごそごそと袋の口を結ぶ音だけが間抜けに響いた。そわそわと居た堪れない状況は、イヴァンがストロベリーティーを取ろうと伸ばした手に打破され、勢いのままアメリカが続く。
「さっきの続きだけれど、他の理由って・・・」
「あ、」
今度はマシューではなく、イヴァンに遮られた。きょろりと動いた双眸が壁に掛かった時計の文字盤を捉える。
「見たい番組があるんだ。つけるよ」
ほぼ決定事項のような言い草でアメリカの反論を許さず、それはすぐさま決行された。いつの間にかイヴァンの手元におさまる銀色のリモコンの先で、かこ、と音が鳴ればたちまち部屋の中に雑音が舞い込んでくる。
ソファに対して真ん前の壁に寄り添うように置かれたテレビから聞こえてきた音声に、アメリカの心臓が内臓の奥深くまですとんと落ちた。慌ててテレビを見やれば、誰でも知っているような有名な建築物がどんと映っている。
「ロシア・・・」
無意識に零れた声に、ハッと口を噤んだ。イヴァンを見ないように俯いたアメリカへ、知ってるんだ、と何処か感心したような声がかかる。
「まあね」
不自然になってはいないだろうか。ハラハラと肝を冷やしながら、アメリカはテレビを食い入るように見つめた。しかし、そんな狼狽振りをあざ笑うかのごとく画面が切り替わり、飛び出して来た司会者がにんまりと左右対称のスマイルを見せる。
「新聞に載ってたんだよ。今日はね、ロシアのひまわり特集なんだって」
「・・・へ、そ、そうなのかい」
不恰好に漏れた声を誤魔化すように相槌を打つアメリカをよそに、羨望の篭るイヴァンの眼差しが惜しげもなくテレビへ注がれた。