15

 考えてみれば、おかしな話だった。この世界にロシアはいない。いるのはティーンエイジャーのイヴァン・ブラギンスキだ。そもそもイヴァンについて焦心しているというのに、なぜロシアにばかり気をやっていたのだろう。イヴァンが彼と何か共有するものを持っていたとしても、それがなんだというのだ。
 ロシアのことを得体の知れない不気味な奴だと思っていた。けれど、上辺だけの付き合いをしてきたのだから、当たり前といえば当たり前のことで。又聞きで得た僅かな情報のみを所持したアメリカの中で出来上がっていたロシアの像とイヴァンの像がズレているならば、まとめて呑み込んでしまえばいい。だってロシア不在のこの世界で、確かめる術などないのだから。これがアメリカの出した結論。
 イヴァンがロシアを模写していようとなかろうと大した問題ではない。大切なのは今、ようやくアメリカが、イヴァン自身と向き合おうとし始めたということ。


『・・・アルフレッド君?』
「ああ、イヴァン」

 エントランス脇に取り付けられたインターフォンから怪訝な声が漏れた。

「部屋に入れてくれよ、君に用があるんだ」
『アルフレッド君だけ?』

 カメラらしき小さな黒いガラスを覗き込む。イヴァンには魚眼レンズを通したような、間抜けな己が見えているのだろうか。頭の中でイヴァンの視界を思い描き、思わず一歩下がる。アメリカ一人きりだと強調するように、わざとらしく左右を見回してから口を開いた。

「俺だけさ、フランシスもマシューもいない」
『そう・・・分かった。上がっておいで』

 自動で開いたガラス扉へ身体を滑り込ませる。前に来たときは、この扉が開けなくて泣く泣く引き返したんだっけ。元の世界へ帰る方法を探したくてロシアにそっくりな彼と話がしたかった。
 けれど、今は心臓の奥で燻る想いを確かめる為にイヴァンと話がしたい。ほんの数日前だというのに、目まぐるしく変化した状況に呑み込まれていくうち、実際よりも長い時間を過ごしてきたように思えてしまう。エレベーターに乗り込み、二階を示す四角いボタンを押した。

 無音で開いた扉の向こうに、イヴァンが見えた。不意打ちだ。アメリカの家から歩いてくる間に、イヴァンに会ってからどうするか幾度もシュミレーションしたというのに、内容が吹っ飛んでしまった。

「こっちだよ」
「Be cool・・・」
「何か言った?」

 ぽそりと自分に言い聞かせた呟きを拾われ、慌てて顔を上げる。

「いや、なんでもない」
「そういう格好のアルフレッド君は初めて見たよ」

 イヴァンはクスクス笑いながらマフラーを翻した。マンションのちょうど中央に設置されたエレベーターからようやく抜け出し、イヴァンの部屋へ向かう。
 アルフレッドのクローゼットに押し込められていた服を適当に見繕い、数歳若返った身に纏えば、何処にでもいるティーンエイジャーの出来上がりだ。アメリカの好みと似通い、カラフルなパーカーばかりが犇めき合うクローゼットを初めて見た時には少々頭を抱えた。この分だと、マシューの部屋からは、色違いのパーカーが発掘されそうだ、と。
 前を歩くイヴァンに視線をやり、上から下まで一巡する。そっけない色のコートでも学生服でもない、ラフな格好が新鮮だった。首に巻かれたマフラーだけはいつも通りそこにあって、やっぱり彼は正気ではないとアメリカは思う。夏本番を向かえ、棒立ちしているだけでも、じわりと汗が噴き出てくるというのに。じっとりと眺めていると、フレンチスリーブの袖から中途半端に剥き出た二の腕が唐突に止まった。

「ここ」

 そう言って、開錠したままだった扉を開けてアメリカを中へ迎え入れる。がらんとした室内は、アメリカの予想通りイヴァンだけのものらしい。玄関には学校用のローファーが一足と、たった今、イヴァンが脱いだスニーカーのみ。
 玄関の扉からまっすぐ突き抜けた先に、リビングルームが見えた。廊下にはいくつか扉が並び、どれもこれもぴったりと閉じられていた。

「ちらかってるけど、気にしないでね。いきなり来たアルフレッドきみが悪いんだから」

 リビングに足を踏み入れれば、イヴァンの言葉そのままに、お世辞にも片付いているとは言えない惨状が目の前に広がった。

「ダンボール箱ばかりじゃないか」

 側面に動物がプリントされたダンボールが二、三箇所に固まって置かれている。よく見れば動物から吹き出しが出て“お引越し”と書かれていた。

「ああ、うん。そうなんだ。引っ越してきたばかり・・・でもないんだけど、なんとなくね」
「なんとなく荷物解きをしていないのかい」
「うん。不自由はしてないよ」

平積みにされたダンボールの中にはガムテープさえ剥がされてない物がある。ん、そう言えば。

「君は転入生だったのか?」

 確か、イヴァンが一年生の頃に先輩を伸したとマシューが言っていた覚えがある。今は二年生だから、マシューの聞いた噂が正しければ一年以上もダンボールと一緒に寝食を共にしている事になるじゃないか。
 アメリカは首を傾げながら、薄っすらと埃の層が出来始めたダンボールに視線を投げた。

「違うよ、引っ越してきたのは先月だけどね。適当に腰掛けて、飲み物を持ってくるよ」

 壁を一枚を隔てたキッチンへイヴァンが引っ込むと、プライドの高そうな室内が途端に静寂を醸し出し始める。
 空調が整い、爽やかな涼しい風が頭上をゆったりと流れていた。飾り気のないモノトーンが配色された家具に、生活感のない匂い、それに加えて積み上がったダンボール箱。
 ごてごてと自分好みに装飾を変えるロシアとは、趣味が違えるようだ。低いソファに座り天井を見上げる。ぽつん、と啼いたオノマトペが言いようのない孤独感に変わった。

 

16

 イヴァンに手渡された長めのグラスに鼻先を近づけて飲もうか飲むまいか思案中。ほんの十分足らず歩いただけだというのに喉はカラカラに渇いていた。
 少しくらい喉が渇いていた方がストッパーになってくれるのではないか。匂いから推測するに十中八九ジンジャーエールだろうけれど、目の前の好物に分類される液体が潤した喉は、余計な事までぺらぺらとしゃべってしまいそうだった。

「それで、用って何かな?」

 ソファに腰掛けるアメリカに対して、イヴァンは片足に体重をかけて立っていた。座る気はないのだろう。アメリカの手にある物と全く同じグラスを傾けて、キラキラと光るブロンドに視線を落としたまま一口飲んだ。
 かち合った透き通るパープルに潜む冷たさに気付くのは、アメリカにとってそうそう難しい事ではなかった。思えば、二人きりで会うのは保健室以来だ。イヴァンにしてみれば、長い付き合いでもない後輩が突然尋ねて来てリビングの特等席を陣取っているのだから、些細な警戒など当たり前なのかもしれない。
 アメリカの予定では、二人の間にマシューやフランシスを挟んでいた時と同様、和やかなムードになる筈だった。この状況下では、唐突だけど俺は君が好きかもしれないんだよ、なんてとてもじゃないが言い出せないではないか。
 異常に軽いフットワークの代償は計画性の無さだと、散々、周囲から口を酸っぱくして叩き込まれたっけ。叩き込まれただけで喉元を過ぎれば定着せずに消えていったけれど。
 あーだとかうーだとか、小さなうめき声を漏らしてから、深く息を吸った。咥内をさすった冷たい空気がアメリカの脳を少しだけすっきりさせる。ほぼ真ん中に下ろしていた尻を左にずらし、空いた所をぽんぽんと叩いてイヴァンに催促した。

「ん?」
「隣、空いてる」
「座れって?」
「Right」

 特に嫌な顔もせず、ペールブロンドが近くなる。緩やかにカーブした毛先が柔らかく揺れて、仄かにシトラスの香りがした。無意識に伸ばそうとしていた手を慌てて引っ込めて、学習しない右手に溜め息を吐く。二度目のゴミが付いていた、は通用しない。一度目だって全く通用しなかったんだから。

「試験勉強はしなくていいのかな」

 暗に帰れと言われたのだろうか。昨日のアメリカを見ていただけに、地理以外の教科も危ういと真剣に心配しているのかもしれない。
 所々白紙だった世界地図はフランシスのおかげで埋った事だし、後は頭の中に問題を解く容量を作れば高校二年生の試験なんてネットゲームをしながらでも合格ラインを超えるさ。
 正直に言えたらどれだけいいか。今だってイヴァンが脳内を占拠して冷静な判断が出来ないのに。

「マシューに角を生やさない程度には、なんとかね。イヴァンこそ、いいのかい?」
「僕もフランシス君と同じタイプだから」
「普段から、コツコツと?」
「うん」

 かちかちと等間隔に刻む音を頼りに顔を上げれば、壁に掛かった銀盤がお昼時をさしていた。

「そんなに畏まった用じゃないんだ。ただ、イヴァンと話がしたかった」
「僕と?・・・昨日もしたじゃない」
「もっとしたいんだ」

 そう言うと、はっきりと驚いた表情になり、まじまじと見つめられた。なまじ隣を明け渡したばっかりに近くなった顔。僅かに赤が差した頬を誤魔化すように、咳をした。ダメかい?口を尖らせて呟いた声は、尻すぼみになってフローリングの床に吸い込まれて消える。

「・・・ふふっ」
「なっ、なんで笑うんだい」
「だって、ふふっ、そんな・・・弱気なきみを、見たことがなかったから」

 喉をくつくつと鳴らしながら口元を隠すようにマフラーへ押し付けるイヴァンを横目に、不貞腐れるアメリカが初めてグラスに口をつけた。

「ふふ、構わないよ。僕もアルフレッド君とお話ししたいと思ってたんだ」

 もう少しで口に含んだジンジャーエールがフローリングに、こんにちは、するところだった。

「イ、イヴァ・・・」
「いっつもフランシス君やマシュー君と一緒にいるから、二人きりでゆっくりお話した事はなかったね」

 潤った喉とイヴァンからのアプローチがアメリカを浮つかせ、常より饒舌になった口は、堰を切ったように他愛もない話を途切れる事なく続けさせた。当初の目的をすっかり忘れ、アメリカはイヴァンの一喜一憂を余すところなく追う。会話に花を咲かせた室内は、既に静寂なんて何処にも見当たらなかった。
 上質な用紙にあらかじめ決められたままの会話ではない。堅苦しい政治の話でも、互いにひいた境界線をチェックしながら当たり障りのない世間話をするでもない。
 ハンバーガーが好きだとかホラー映画は怖いけど観てしまうんだとか、一房飛び出たアホ毛はどんなにワックスを塗りたくっても重力に逆らうんだとか、些細な、けれどアメリカを形成する大切な要素ばかり。
 ぽつりぽつりと相槌以外の声を出し始めたイヴァンの時おり混ざる無邪気な嫌味でさえ楽しく思えた。


 あっという間に時間が過ぎ、気付けば夕方になっていた。

「そういえば、昼抜きだったんじゃないかい?」
「朝ごはんが遅かったから平気だよ。でも、そろそろお腹が空いてきたね・・・帰る?」
「そうだな・・・あ、マシューがいないんだった。ハンバーガーでも買って帰ろうかな」
「マシュー君もお出かけ?」
「ああ、フランシスの家にね。俺とイヴァンも誘われたんだけど勝手に断ったんだぞ」
「・・・・・・うん。まあいいや」

 腑に落ちないが、過ぎたことを責めても仕方ない。彼は大概ゴーイングマイウェイだと知っているから、目を細めるだけにして早々に切り捨てた。

「マシューはフランシスの家で夕飯を食べてくるだろうから・・・」

 少しだけ期待した目でイヴァンを見やる。

「じゃあ、アルフレッド君は僕の家で食べる?」
「それは良い案だ!君、料理ができるのかい?」
「ええ・・・面倒くさいから駅前のスーパーに行って何か買ってこようよ」
「oh・・・」