13

 下足ロッカーの前に仁王立ちして、ローファーを取り出し履き替える。このままロッカーで築かれた壁の向こうにいるマシューを置いて全速力でダッシュすれば、休日を挟んで少なくとも後二日はイヴァンと顔を見なくてすむじゃないか。妙案を思いついた。今のアメリカにとって、これ以上ない程。逃げるわけじゃない、ただ混乱したまま顔を合わせたくないだけだ。
 尤もらしい言い訳を振りかざし、口端をきゅっと引き締める。上履きを古びたロッカーに押し込み、不快な金属音を鳴らして扉を閉めた。走り出そうとした瞬間、アメリカは僅かに躊躇した。イヴァンと顔を合わせたくない。でも、会いたい。

「あれ?イヴァンさんしかいないみたい?」

 一瞬の戸惑いがアメリカの逃げ道を消し去った。一足先にローファーに履き替えマシューがアメリカの元へ歩み寄ってくる。その途端、ロッカーの扉を閉めたアメリカの手は、強力な接着剤で貼り付けたように動かなくなった。
 マシューの視線の先を辿れば二年生の波の中に頭一つ飛びぬけた淡いプラチナが強い日差しを受けて輝いていた。イヴァンを視界に捉えた瞬間、跳ね上がる鼓動と首筋から競り上がってくる熱を肌の奥で感じる。もしかしたら、あまりにも悪夢の衝撃が大きくて、想像している内にイヴァンを美化し過ぎていたのかも、なんてぺらぺらの期待はあっという間に砕け散った。力一杯殴っても傷一つ付きそうにないのに、滑らかな白磁で象られた体躯は目を離したら、強い日差しに溶けて消えてしまいそうだ。
 アメリカ達の到着を待っているのだろう、己のつま先に目を落としてイヴァンはぽつんと佇んでいた。一つ上の学年で、しかもあのイヴァン・ブラギンスキという事もあり自然と珍獣でも見るかのような視線が集まり針の筵状態。けれど、当の本人は慣れているのか横目でちらちらと見てくる後輩の視線を物ともしていない。
 イヴァンは気に止める素振りすら見せないというのに、アメリカは周囲の人間が気になって仕方なかった。そんなに見たら、イヴァンに穴が開くじゃないか。同級生の視線は突っ立ったままだったアメリカを、イヴァンが待つ炎天下の元へ引きずり出す。不思議そうな表情のマシューを尻目に、ずかずかと大股でイヴァンへ近づき周囲から飛んでくる視線に割り込んだ。

「あ、アルフレッド君とマシュー君」

 同じ顔に全く異なる表情を被せた二人を見つけて、イヴァンが微かに破顔する。

「あれ?フランシスさんは・・・」
「フランシス君はね、女の子に呼び出されちゃってさ。長くなりそうだから先に帰って、って」
「相変わらずモテますね」
「ねー」

 デフォルメされたパステルカラーの花弁でも量産していそうなイヴァンとマシューから一歩下がり、アメリカは虚ろな目で鋭利な日を落とす青空を仰いだ。跳ね上がった心拍数は鼓膜の奥でドクリと波打ち、破裂の時を待っているよう。

「アルフレッド君、今日はやけに静かだね」
「別にそんなこと」
「・・・折角フランシス君が教えてくれたのに地理の試験だめだったのかな?面倒くさいけど先輩が慰めてあげようか?」
「1ミリも慰めてあげようだなんて思ってないのが丸分かりなんだぞ!」
「えーそんなことないよ」
「ちょっ、アル!大きな声出さないでよ。目立つじゃないか!」
「マシューは目立たないから大丈夫だよ」
「酷い!」

「ふふっ面白い兄弟だね、帰ろうか」

 くるりと身を翻したイヴァンに従い、長く垂れたマフラーが靡いた。
 たった一つのきっかけがあったに過ぎない。ロシアによく似たイヴァン。誰も立ち入らせないと思っていた絶対の不可侵が、唐突に現れた男にあっけなくその身へ侵略を許した。だからこそ興味本位で粘着質な思いが沸き立っているのだろうか。あれやこれやと悩んではいるものの、今思えば前提としてそう思い込んでいたのかもしれない。イヴァンを想うこの衝動はロシアに対する子供みたいな好奇心で、恋情ではないのだと。


 どこまでも続く暗闇が視覚を無にし、靴底に泥濘む底なし沼がアメリカの行く手を妨げた。どす黒い泥に足先から纏わりつかれ、這い出そうにももがけばもがく程着実に深みに飲み込まれていくのが分かる。
 やっとのことで岸辺を掴んだ手は、不気味な笑みを貼り付けた男によって蹴り返されてしまった。仰ぎ見たその顔は・・・いいや、こいつはロシアじゃない。ロシアは俺に向けてこんな顔を見せていただろうか。俺を見るロシアの瞳には、こんなにも浅劣な憎しみが込められていただろうか・・・

「・・・っ」

 瞼を押し上げ、額に浮かんだ汗を拭いながら身を起こした。カーテンの隙間から零れる月明かりが夜明け前であることを告げ、ぐるぐると乱れ続ける曖昧な思考が未だに夢と現実の間を彷徨っている。己の右手を見下ろし、ぐっと握り締めて感触を確かめた。岸辺の指触りも、男に蹴られた痛みも妙にリアルで気分が悪い。深い溜め息を吐き、再び仰向けで寝転んだ。

「重症だ・・・」

 滅入った気分が、ほとほとアメリカの思考を混乱させた。
 極端にズレていた筈の二人の像が互に歩み寄り、まるで同じモノであるかのようにダブり始めると、ぽっかりと黒い口を開けた深淵を覗き込んだかの如くゾクリとした悪寒がアメリカの背筋を伝った。皮膚が小さく引き攣るような鈍い痛みを呑み込み、はたと気づく。

「俺は、誰を見ているんだい」
 


14

 イヴァンについて思うことは色々ある。それはもうマリアナ海溝の最深部に届きそうなほど深く。揺れ動く不確かな気持ちが、恋情であれ好奇心であれ、これ以上あたふたと悩むばかりはアメリカの性に合わない。目下心力を注がなければならないのは、二日後に再来する期末試験であり、アメリカ自身がおかれている異世界からの帰還方法の探索だ。
 今や三億を超える国民が総出で突っ走ってきた歴史を倣う様に、善し悪しは別としてもアメリカのフットワークは異常に軽かった。行く手を邪魔する壁には全力で体当たりをするのが己なのだと冷静を取り戻しつつある脳が警鐘を鳴らしている。例え徒労に終わろうとも、浸かりきった泥沼で一筋でも光が見えたなら、最後まで悪足掻きをするのがヒーローの務めなのだと。


 身支度を終え、冷蔵庫や戸棚を漁る目的以外で初めてキッチンへと侵入する。思えば、食糧を買い込むのはアメリカで、調理するのはマシューばかりだった。たまには炎天下の元、指先に血が詰まるような重たいビニール袋を抱える兄弟の姿も見たいものだと愚痴を溢したいが、その代わりに家事をよろしく、と言われてしまうのが末恐ろしくて未だ心に秘めたまま。
 けれど、今朝は。ふかふかの食パンをトーストにする程度、生卵をフライパンに割り落として半熟にする程度、ベーコンをカリカリにして黄色いひよこがペイントされた皿に盛る程度、アメリカにだって出来ることを証明したかった。作り始めてしまえば、アメリカで暮らしていた頃、当たり前のようにこなしていた事を思い出し、苦い笑みが零れた。

 ダイニングルームの時計は10時30分を示していた。マシューの自室がある二階からようやくがたごとと物音が聞こえ始め、それからたっぷり五分を使い切ってから寝ぼけ眼の兄弟が姿を現した。

「・・・?いい匂い・・・?」
「Good morning」

 夢と現実の狭間を行き来するマシューの耳へアメリカのよく通るテノールが届くと、ラベンダー色の瞳を半分くらい覆っていた瞼が、あっという間に見開かれ驚愕の表情が出来上がる。そこまで驚かなくても、と溜め息を吐きながら朝食がセットされているテーブルを指差した。

「・・・そんなに地理の出来が悪かったのかい?」

 試験結果の悲劇を予想したアメリカが、今からマシューの小言回避を企てている。おおよそ、ハニーメイプルでぬめったマシューの脳内はそんな処だろう。ご機嫌取りじゃないよ、そんな意図を込めて呆れた顔をしてやれば、おずおずとマシューがテーブルへ歩み寄ってくる。熱々のコーヒーカップを両手に持ちながらアメリカも椅子へ腰掛けた。

「ん、美味しい」
「だろう?」

 かぷ、とトーストに歯を立てたマシューが、先ほどの失言を撤回するようにアメリカへ笑みを向けた。そんな言葉では絆されはしないと、ぷくりと頬を膨らませながら、まんざらでもない様子。

「あ、そうだ」

 口の端へトーストのかけらをくっつけながら思い出したようにマシューが声を上げた。返事の代わりにアイスブルーの視線を投げれば、ハムスターに似た頬を空にすべく、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。

「フランシスさんの家で勉強会しようって、さっきメールが着たよ。アルフレッドとイヴァンさんも誘って。昼と夜のご飯は任せろってさ」
「oh・・・残念だけど、俺もイヴァンも行けないんだぞ」
「そうなのかい?」
「ああ、イヴァンに話があってね。フランシスはマシューに任せるよ」
「分かったよ、伝えとく」

 納得したようにカップに残ったコーヒーを嚥下すると、マシューは足早にダイニングを後にした。フランシスへ返信するためだろう。四人前が二人前になるのだから、訂正するには早ければ早いほどいい。
 テーブルに広がる使用済みの食器を手元に集めて重ねながら、ついつい嘘を吐いた唇をひと噛みした。否、嘘とは言い切れない。アメリカはフランシスの家に行かないしイヴァンに話がある事も真実。ただ、イヴァンに了承を得ていないだけ。


 アルフレッドとマシューはそれぞれ出かける準備をして一緒に家を出た。出かけると言っても、フランシスの家もイヴァンの家もジョーンズ家からは、忘れ物のたった一冊のノートですら気軽に取りに行ける距離にあるので、二人とも軽装だ。マシューに背を向け、イヴァンの家の方へ歩き出す。背後から、あまり迷惑にならないようにね、とお節介な母親のような声が聞こえたが左手をひらひらと振って応えるに留めた。

 僅かな日陰を辿るように、歩道の隅っこをとことこ歩く。荷物といえば、ズボンの後ろポケットに差し込んだ財布と、手に持った携帯だけ。菓子折りとは言わずとも、コーラの一本でも持ってくるべきだっただろうか。鋭い日差しに熱せられた頭を動かし、ぼんやりと考える。
 相も変わらず、うだるような不快な湿気が、剥き出た首や腕に貼り付いた。もしも、今、隣にイヴァンがいたなら、いつものように暑苦しい布を首へ巻きつけながら涼しい顔をして闊歩しているんだろうか。頭の中で思い浮かべ、顔を歪める。正気の沙汰とは思えなかった。
 それから、アメリカは小さく笑った。