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みっちり叩き込むと啖呵をきったわりには日が落ちきる前にあっさりと解放され、マシューと共に岐路についた。慣れない作業に頭はパンク寸前。家に着くなりソファの上へぐったりと身体を投げ出したアメリカは夕飯も食べず、そのまま眠りについた。
変な体勢のまま長時間放ったらかしだったので首の後がズキズキと痛い。早すぎる就寝は早すぎる起床を伴い、アメリカは薄暗いリビングでぼんやりしながら眼鏡を探しているところ。マシューが部屋から持ってきてくれたのであろう薄い掛け布団を半分に折りたたみソファの背もたれに掛けてから立ち上がり欠伸を一つ。両腕を天井へ伸ばし縮こまった身体を伸ばした。
「4時半か」
幽霊が出る時間は超えているようで一安心。空腹を訴える源をどうにかしようと冷蔵庫を漁り、昨晩の残りを発見してあっという間に完食する。兄弟が起きて来るまで、まだ時間がある。欠伸を溢しながら、もう一眠りしようとアルフレッドの部屋へ向かった。
「分かっている、分かっているからそんな目で見ないでくれよ」
ごろごろと寝そべるアメリカとテレビの間に仁王立ちしたマシューが口を開く前に降参した。両手をひらひらと上げながら起き上がり、いそいそと出かける準備を始める。
「今日は何が安いんだい・・・」
耳を塞いでも流れ込んでくるけたたましいBGMを背負いながら住宅街をひたすら歩く。七月に入り夏本番に向け日々仲間を増やしていく昆虫達が太陽よりも鬱陶しく感じた。アメリカ合衆国だった頃は四六時中ビルの大群に囲まれ効き過ぎのクーラーに軟禁され、一部屋丸ごと壊れかけた冷蔵庫並みに冷やされていたのだ。移動といえば車で、外へ遊びに行く事も多々あったが時間で区切られた授業ではなく堅苦しいルールもなかった。
真夏日を伝える天気予報を思い出しながら辺りを見回すと、極限まで布を節約した人々が行き交いそれぞれの日常を過ごしていた。創立記念日なのはアメリカの学校だけで、彼らにとってはなんら変わらない平日の昼。少しでも涼しくなる夕方に出掛けたかったのだが、それではセール品が売切れてしまうらしい。チラシを広げながら瞳を輝かせた兄弟の顔を思い出して、まあいっかと息を吐く。
右手ばかりに負荷がかかり、均等に分けて入れればよかったと今更ながら後悔した。ちらりと袋へ視線を落とすと、濃い茶色の液体が詰った瓶が何本も覗く。カナダの家で食べたホットケーキにたっぷりとかかったメイプルシロップは、もっと薄い色だった気がしたんだけどなぁ、と首を傾げながら左手に持った袋へ視界を移動させた。箱にまで汗をかいたアイスが顔を覗かせ、思わず口が緩んでしまう。
突然、何か言い争うような微かな声がアメリカへ届く。声を辿り顔を上げると、覚えのあるマンションが見えた。見るからに高級なあのマンションだ。咄嗟に二階の隅へ焦点を合わせた。一番端の開いた扉の間に、二人分の人影が映る。
「イヴァン・・・と誰だい」
全く見覚えのない風格のある男。悪目立ちするイヴァンに少しも劣らないその男は艶やかな長髪を一つ結びにして後へ流し、無表情のまま異様な雰囲気を醸し出していた。
「ウルス!話しはもう終わりだって言ってるじゃないっ」
「イヴァン」
声を荒げるイヴァンに対し、冷静を保つウルス。何かトラブルだろうかとアメリカが走りようとした瞬間、二つの影がぴたりと重なった。
「な・・・っ」
いとも簡単にイヴァンの身体を抱き寄せ、額と頬にキスを落とす。眉を寄せながらウルスの行為を受けるイヴァンは、呆然と固まるアメリカの目には今にも泣いてしまいそうに映った。
「・・・早く帰って」
ばっとウルスを振り払い、不貞腐れた表情で視線を一切合わせようとせずマフラーに顔を埋める。その場から動こうとしないウルスが再びイヴァンの名を呼んだ。穏やかなその声がアメリカの耳に届くと、マンションへ向いていた足先は無意識の内に修正され歩き出す。
何が何だか全く分からない。今見た光景が脳裏を過ぎっては意図的に破裂させた。思い出したくないのに勝手に再生され続けるそれはまるで悪夢。つま先から不快なもやが溜まっていき呼吸することすら煩わしくなった。
だいたいあの高そうなマンションに住んでいることがひっかかる。表札に書かれた名前はイヴァン一人のもので、両親や他の人間と共に住んでいる確率は非常に低い。高校生が一人暮らしをするにはいくらなんでも不釣合いだ。
「・・・さっきの男に買ってもらった家?」
呟いた声は空気を辿り、まるで他人の戯言のように鼓膜を震わせる。
金持ちが気に入った人間を囲うなど国という立場上、アメリカの周りでは別段珍しいことではない。脳内で出来上がった答えはたった一つなのに、堂々巡りしながら思考を紡ぐ。成長しきっていない独特な色香を嗅ぎ取ったのか・・・一度、単純で浅薄な結論に達すると、それ以外の選択肢は消え去りアメリカの中で身勝手な確信に変わっていた。
12
「あ。遅かったじゃないか、また余計なもの・・・アルフレッド・・・?」
「なんだい」
出迎えたマシューに返る、拒絶するようなアメリカの声。凄く怖い目をしているよ・・・マシューは無意識に喉の奥に出かかった言葉を飲み込んだ。言ってはいけないような気がした。アメリカ自身が気づいているのかいないのか、マシューには判断が付かない。けれど、青褪めたアメリカの表情に痛嘆が含まれているのは確かだった。
重たい空気を背負う教室内には、カサカサと薄い紙が擦れ合う音と細かな黒い線を引くシャーペンの音、それに時折ギッと古びた椅子の軋む音がそこらかしこで嘆き喚き、正面の壁に掛けられた時計の秒針が学生を追い立てるように時を刻んでいた。
両腕の肘から先をぺったりと机に乗せたまま、心の中で謝罪する。Sorry、アルフレッド。期末試験二日目に配布された試験用紙を前に、アメリカは固まっていた。
日丸語で綴られた文字を読み、論理的に答えを導き出し、解答用紙に記入しなければいけなということは分かっている。赤点をとれば間違いなくアルフレッドに迷惑をかけてしまうだろう。己が元の世界に帰った後、彼は派手に滑り落ちた成績に落胆した上にマシューの小言攻撃も喰らわねばならない。
分かってはいるが悲しい哉、現在、アメリカの脳内にその行動を完遂するために必要なだけの空き容量が残っていない。
昨日、目が覚めている時に見た悪夢に、どっぷりと埋もれ切った頭が知らず知らずのうちにイヴァンを思い描いては膨れ上がりアメリカの思考を支配していた。仮に、アメリカがアルフレッドではなく合衆国で、足掻いた後もない真っ白な解答用紙を上司に見せたなら、世界各国の重鎮が集まり世界会議が開かれる事は必至だ。
けれど、仕方がないじゃないか、無性にイヴァンが気になるんだから。ぐ、と力を入れた指先に呼応して細長いシャーペンが軋んだ。
昨日はマシューの声を聞くまで家に着いたことすら分からないほど動揺していたけれど、一晩時間を置き少しだけ冷静になった。そうして気づく、心臓の奥底で芽生えた身に覚えのある小さな感情。
長髪の男に抱き締められていたイヴァンを可愛いと思った。否、思ったかもしれない。飴を差し出したイヴァンは可愛かった・・・たぶん。頭の中で反芻する事さえ躊躇われる想いだった。
幼いとは言え、同じ顔をしているのだ。長い間、敵同士で碌な会話も交わさなかった彼に。見た目が若いからと言って、イヴァンが突然グラマラスなスラブ美女になる訳ではないというのに。ああ、セクシーな美女に変身でもしてくれたなら、この置き場のないそわそわとした感情がいくらか和らぐかもしれない。普段であれば間抜けた妄念だと頭の一つでも抱えたくなる所だが、今のアメリカは至って大真面目だ。
もしもアメリカの中で蟠る鬱陶しいほどの感情が、身に覚えのある感情そのままにイヴァンを受け止めた結果であるならば、それはとてつもない脅威・・・その大部分は、イヴァンがこの世界のロシアである事でも、彼の脚の間に己と同じ物が付いてる事でもない。もちろん、大部分以外の部分を占領するモノがその二つである事は否定しないが。
イヴァンには抱き締められ、額と頬にキスを与えられて不貞腐れた顔をする相手が既に存在しているのだ。どう見ても心の底から嫌がっている素振りではなかった。
おーまいごっと、ヒーローとヒロインはハッピーエンドになると決まっているんじゃなかったのかい。
「残り10分」
混沌とした雑念を掻き消すように、教師の声が響いた。ハッと我に返り、正面の時計へ視線をやる。声の通り、試験時間は残すところ後十分を切っていた。手元を見やれば、まっさらな解答用紙が早く書けと催促しているように身を晒している。
「俺は正義のHEROだ・・・HEROが0点なんて、とっても格好悪いんだぞ・・・!」
音にならないように口先だけで言葉を紡ぎ、シャーペンを握りなおした。
「アルー地理はどうだっ・・・」
中途半端に途切れたのは、机に突っ伏す悲しげな背を見つけたから。マシューの声を無視し、しょんぼりと暗い影を背負うアメリカは、見るからに脆い殻に閉じこもっていた。
怖々とアメリカの肩に手を置き小さく揺する。何をしょげているか知らないが、マシューにはマシューの予定がある。ぐずぐずしている暇はない。
「待ち合わせしてるんだから早く帰ろうよ」
うな垂れたアメリカの脚に巻き付く、地面から生えた見えないツタを引き千切る様に無理矢理立ち上がらせる。イヴァンとフランシスのクラスはいつも帰りのHRが短いのだ。
「自分の足で歩いてくれよ!」
ナメクジみたいにアメリカの爪先がズルズルと廊下を這う。歩いた先にイヴァンがいるなら両脚に足枷でも巻いて教室に繋ぎとめられたい気分だ。まあ、ほぼ互角の体型をしている男を軽々と引っ張りあげてしまう兄弟なら足枷を易々と壊してしまいそうだが。
三年生の昇降口は奥まった場所にあるので、待ち合わせは、校門により近い二年生の昇降口。自分が丹精込めて教授した地理の出来を知りたいと、一昨日の帰り際に待ち合わせを提案したフランシスを怨みたい。一方的な恨みだと分かっているが、怨念の一つや二つ送っても罰は当たらないだろう。アメリカにしては控えめに呪詛を吐きながら二人が待つ筈の昇降口へ向かった。