09

 終始何を考えているのか分からないアメジストが嵌め込まれた眼孔を真正面から覗いたのは、いつ以来だっただろう。単なる挨拶を交わすだけでも、周囲の空気が絶対零度に凍りきり碌に話す機会もなかった超大国であるアメリカとロシア。けれど、例えば機会があったとしても、話そうとは思わなかったかもしれない。
 今となっては、ほんの数日前の己に確かめる行為にすら虚無が生まれる。ロシアはイヴァン・ブラギンスキに掏り替わり、アメリカはアルフレッド・F・ジョーンズになってしまったから。

 目を瞑り穏やかな寝顔を無防備にアメリカへ晒し、易々と己のテリトリー内への侵入を許した若干17歳のイヴァン。生きてきた歳月は桁を違えたとしてもロシアの面影は至るところから見つけられるのに、アメリカへ向ける眼差しが全く異なっていた。アメリカがロシアの視線から読み取れる事と言えば、せいぜい貪欲なまでに羨望する暖かな地への欲求と生理的な嫌悪にまで達しているであろう己への苛立ち。それらが欠け落ちたイヴァンは、ロシアとは根本的に違う存在だと感じてしまう。

「マシューもフランシスも、よく似ているのに・・・」

 イヴァンだけ違う。世界が違うだけで同じ存在だと結論付けたばかりだというのに、イヴァンがあの調子ではアメリカの思考に燻りが生じ、違和感を拭いきることは到底不可能だ。否、ロシアが潜む幾重にも降り積もったベールを剥がしきった先にイヴァンがいるのかもしれない。国家として対立したことなら数え切れないほどあるが、ロシア個人と膝を突き合わせたことなど一度もないからアメリカには真相を知る術がなかった。

「全く、そんな事どうだっていいじゃないか!優先すべきは、元の世界への、帰り方、」

 口先に並べた言葉はこれ以上ないほど正論に聞こえる。イヴァンも先の2人と同様、国家ではなく元の世界への道標となるお助けキャラではなかったのだから、余計なことは考えずにいればいい。しかし、窄まった語尾が迷いを如実に表していた。

「まだかい?」

 戸口からひょいと顔を覗かせたマシューの声に鬱蒼とした靄が少しだけ雲散する。そう言えば、汗と土埃で汚れきった体操着を洗濯機に放り込めとの命を受けたんだっけ。洗濯機の前で立ち竦む兄弟の姿を見たマシューの眉が逆ハの字に吊り上り、唇は小言を発動する準備にかかる。

「い、今からやるところさ!」

 慌ててバッグを開き、汚れた体操着を取り出して脱いだ時の形に埋まったままの袖を引きずり出した。ふと、目の前で広げた肌触りのいい布の胸部辺りが目に入る。後から個別に縫い付けるようになっているネームシート。アルフレッドの学年を示す青枠にはクラスと名前を書くスペースがある。

「ジョーンズしか書いてないじゃないか・・・」

 不精をしたのは間違いなく、マシューでも両親でもなくアルフレッドだ。だってアメリカが書く文字の癖と瓜二つ。イヴァンはアルフレッドの名前をフルネームで当てて見せた。書いてあると嘘まで吐いて。

「なあマシュー。イヴァンは俺の事を知っているかい?」
「アルの事を?フランシスさんの友達で僕の兄弟って事は知っているんじゃないかな」
「そうかい。そう言えば、イヴァンが目立つって・・・」
「ああ、ほらイヴァンさんって笑顔で威圧するし、マフラー常用だし・・・1年の時に茶化してマフラーを外そうとした怖い先輩を一捻りにしたって噂が流れてるじゃないか」

 容易く想像がつく。けれど、アメリカの脳内でマシューの言葉通りの行動を実行しているのは、イヴァンではなくロシアだった。

「まあ、あくまでも噂で僕にとっては普通の先輩だけどね・・・でも、フランシスさんとはよく話しているのに、他の先輩と仲良くおしゃべりしてるところは見たことないかも」

 思い出すように空に焦点を投げるマシュー。一人歩きした噂が大きくなりすぎてマシュー自身もよく分かっていないのだろう。アメリカは整理しきれない頭を傾けて無意識のうちにイヴァンを思い描く。挑発的というよりはしょうがないなという笑みを浮かべてアメリカを起こした彼。触れられた肩に手を置き、ぐっと力を込めた。

「昨日からイヴァンさんのことばかりだね。気になるの?」
「なっ、何で俺が!」

 他意はないが的確にど真ん中を射抜いたマシューに思わず声が上擦る。

「・・・何焦ってるんだい」

 バッグに残っていた体操着を洗濯機の中に放り込むと、細められた視線から逃げるように脱衣所を後にした。

 

10

 元の世界へ帰る方法を探さなくては。そうだ、好奇心ゆえ一週間もダラダラと過ごしてしまったけれど、アメリカ合衆国であるのだから一刻も早くアルフレッドから脱しなくてはならない。論理的思考が導いた揺ぎ無い結果が夢の中にまで出張してアメリカに説教をし始めたというのに。

「どうして俺はここにいるんだい・・・」

ボソリと呟いた声を拾うように周囲にいた三人がアメリカへ顔を向けた。


 学期末試験一日目が終わり、帰りのHR後、隣のクラスのマシューを捕まえて一目散に向かったのは昇降口ではなく三年生の教室だった。マシューからフランシスのクラスを聞き出し、既に帰宅し始めていた上級生の波を掻き分け、暑苦しいマフラーと長髪を探す。フランシスはともかく長身のイヴァンを見つけるのは簡単だと高を括っていた。けれど、教室の隅から隅まで目を凝らしても見つからない。二人とも帰ってしまったんだろうか。
 今日に限って長話を始めた担任を怨んでやろうと唇を噛み締めているとマシューに袖を引かれた。後に振り向きマシューが指差す方を見やれば廊下の角から二人の姿が現れる。よく見ればイヴァンの手には長細いゴミ箱が。

「掃除当番だったんだね」

 すぐ隣で当たり前のように言われた言葉に思わず目が丸くなる。あのロシアがゴミ箱片手にフランスと仲良く掃除当番。元の世界では到底有り得そうもない光景に知らず知らずのうちに笑いが漏れた。

「お、アルフレッドにマシューじゃないか。どうした?」
「アルフレッドに連れて来られたんです。フランシスさんのクラスはどこだ、イヴァンさんも同じクラスなのかって」
「そんなこと言ってないだろ!変なこと言わないでくれよ!」
「ついさっき言ったじゃないか」
「マシュー君久しぶりだね。アルフレッド君、僕に会いにきてくれたのかな?」
「・・・まあそんなところさ」

 不貞腐れるように顔を背け、横目でちらりとイヴァンを見るが特に気にした様子もなくマシューと談笑していた。気にしすぎだ、イヴァンにとって友人の友人である後輩が訪ねてきただけ。未だ緊張状態のまま雪解けを待つライバル国が訪ねてきた訳ではないのだから。

「アル!これからフランシスさんの家でランチを食べるんだけど一緒にどうって。行こう?」
「ついでに先輩が勉強を教えてやってもいいぞ」
「勉強はいらないけどランチはいただくとするよ」

 悪すぎることはないが決して良いとは言えないアルフレッドの成績を知ってのことだろう。ニヤニヤと口端を上げながら皮肉を混ぜ込んだ台詞に拒否を返した。


 そして冒頭に戻り、現在。

「どうしてってお前の地理理解度が小学生も真っ青だったからに決まってるだろう!明日は創立記念日で休みだから今日はみっちり叩き込んでやる!」

 ただでさえ地理は苦手だというのに、アメリカの脳内でぼんやりと形作る世界各国と教科書に載っているメルカトル図法でひかれた世界地図らしきものが所々一致しないのだ。最も違うのはアメリカたちが生活しているこの国。国の名前も形も全く知らないものだった。
 ランチを食べ終わりのんびりと談話している最中、アメリカの頭の中に描かれた真っ白な世界地図に気づいたフランシスにより、半ば強制的に地理の勉強中だ。

「フランシスも試験勉強したらどうだい?3年生なんだから受験があるだろ?」
「お兄さんは日ごろからこつこつやってるから直前に慌てなくていいの」
「マシュー、もう帰りたいってフランシスに言ってくれよ」
「自分が住んでる州の名前も言えないって僕・・・流石にどうかと思う・・・」

 微かに青ざめた顔に悲壮が漂う。
 そこまで真剣に落ち込まなくてもいいじゃないか・・・

「イヴァン!君からも言ってくれよ」
「え、僕?」

 向かいに座るイヴァンは、んー、と軽く首を唸ってからポケットを漁り始めた。グーに握られた手をアメリカの方へ差し出して、半分ほど黒い線で埋まったノートの上にぽとんと乗せる。

「それあげるから頑張って」

 にっこりと無邪気な笑顔と仕草についつい固まってしまう。未だ慣れない彼から目を逸らしノートの上へ。そには両端を捻り水玉模様が描かれた小さな飴が一つ。イヴァンは「甘くて美味しいよ」と一言付け加えると、何事もなかったかのように手元の本へ視線を落とした。ふわりと傾れた毛先が緩やかなカーブを描く頬に沿って影を作る。
 高校生なんてアメリカにとっては小さな子供同然。ブリザードが吹き荒れ水面下で皮肉を飛び交わせていたロシアと違い素直なものだと溜め息を吐く。生まれ持った髪の毛も目の色も、まるで原色であるかのように主張する己と違い、白くて淡いイヴァンの色。ふわふわと柔らかそうな髪に無性に触れてみたくなった。
 持っていたシャーペンを机の上に転がし、手を伸ばす。あっけないほどに触れ合った刹那、困惑した表情のイヴァンがアメリカを見た。視線が混じった瞬間、弾かれたように手を引っ込める。

「何?」
「・・・ゴミがついてた」

 咄嗟に口先から零れた言葉はなんとも間の抜けたものだった。アメリカの言い分に瞳を丸くしたイヴァンはふふ、と笑う。

「嘘が下手だね」