07

「イヴァン・ブラギンスキ?」
「そう、イヴァン・ブラギンスキ。フランシスの知り合いみたいなんだけど、知っているかい?」
「フランシスさんとよく一緒にいる背の高い先輩だろ?知り合いっていうほどでもないけど、何度か挨拶したことはあるよ」

 そういえばフランスとロシアは仲が良かったな―垂直に落ちてくる太陽の光を仰ぎながら異世界にいる二人を思い出した。面倒見がいいとはいえ、フランスの手に負いきれるとは到底思えないが、ロシアの方はそこそこ懐いていた気がする。

「イヴァンさんがどうしたの?」
「さっき見かけたからさ」
「アルフレッドが知らないことに驚きだよ。フランシスさんの友達だし、その・・・目立つ人だから」

 身長だろうか、マフラーだろうか、それともイヴァンもロシアのように妙な威圧感があるんだろうか。世界は変われど、ロシアの本質的な部分に変更がないのだとしたら、アメリカとイヴァンの仲がぎこちないものになりそうだ。相性が最悪なことはアメリカ自身、重々承知していた。


 からりと晴れた初夏。6月の終わりとは言え日差しは強く、剥き出しの肌をじりじりと焼くように照り付けていた。
 期末試験の勉強で煮詰まる学生にとって息抜きとなる体育の時間。先生も自習ばかりの授業にストレスを抱え込んでいると分かっているようで、体育館でバスケットボールか校庭でサッカー、学生に好きな方を選択させ時間一杯遊ばせることにした。
 アメリカはサッカーを選び校庭へ。歩いているだけだというのに、じんわりと汗ばんでくる。すると、数日間で覚えたクラスメイト以外にも、ちらほらとジャージを着た学生が昇降口から姿を見せ始めた。ジャージに縫い付けられた名札の枠は緑色。どうやら3年生もアメリカのクラス同様、二手に分かれたらしい。サッカーゴールは二つなので、学年対抗で試合をすることになった。
 チャイムが鳴ると、朝礼台を挟みアメリカのクラスは右側へ、3年生は左側へ。出席番号1番のアメリカは自動的に、一試合15分×3回に分けて行われる初戦への出場が決定する。ジャージの上だけ脱ぎ、半そでの体操服の上からゼッケンを被ってポジションへ向かい、試合開始を告げるホイッスルを待った。

 汗だくになった体操服の裾を掴みパタパタと扇いで空気を入れる。生ぬるい空気が腹部を通り抜けひんやりとして気持ちがいい。3年生に惨敗したアメリカたちは、待機中の2年生が集まる木陰に飛び込んだところ。仇討ちはサッカー部が固まった出席番号中盤に任せるとしよう。米神や首筋から流れる汗が止まらない、頭から水でも浴びたい気分だ。そう思ったのはアメリカだけではないようで、クラスメイトと連れ立って昇降口脇にある水飲み場へ向かった。

 汗と水でびしょ濡れになった体操服を脱ぎ捨て、長袖のジャージに着替える。袖を捲くりながら校庭に戻る途中、3年生が屯するコンクリートが目に入った。校庭と分かつ為に一段高くなった箇所へ腰掛ける学生や、その場に立ったままクラスメイトの試合そっちのけで話し込んでいる。全員が土の上に直で座り込んでいる2年生に比べると、文句の一つも言いたくなるが太陽から逃れる木陰がないのでイーブンということにしよう。
 手前から奥の方へ視線を流していると、ぽつんと空いた隙間を見つける。仁王立ちした彼は、両側の学生との間に透明な壁を作り、校庭で走り回るゼッケンをぼんやりと眺めていた。長袖長ズボンのジャージに長く靡いたマフラー、汗一つかいていない白い頬は、周囲から独立しているかのように異様な光景だった。

「ロシア・・・」

 無意識に零れた微かな音が、一時の静寂を生んだ。騒がしい雑音の一切が掻き消され、立ち止まったアメリカを呼ぶクラスメイトさえ無に変換される。間違いない、彼がイヴァン・ブラギンスキだ。そう確信した瞬間、イヴァンの方へ歩き出していた。
 一歩一歩近づくに連れ、違和感を覚え始める。持って生まれた白い肌が僅かに上気し、ぼんやりと開いた視線が定まっておらず、肩幅弱に開いた脚が小刻みに揺れていた。

 ―ロシアさんは、暑い夏がひどく苦手なようです―

 ふいに頭の奥で再生されたのは、凛とした低い日本の声。
 肌が真っ赤に染まるのを防ぐために着込んだのだろう。しかし、刺すような日差しと纏わり付く暑苦しい熱気の元では、体力を奪う原因になる。
 心なしか早足になり、緑色の集団へ割り込んでいく。手を伸ばせば触れられる距離まで近づき立ち止まった。アメリカにてんで意識を寄越さないイヴァンが向いた先に、フランシスを見つける。同じクラスだったのか・・・再びイヴァンに焦点を戻し、声をかけようと口を開いた。

「・・・イヴァン?」

 その声に、ピクリと反応したイヴァンはゆっくりと首だけをアメリカの方へ向ける。アメジストとスカイブルーが重なり溶け合うと、青ざめた唇の端が吊り上った。瞼を細めアメリカのよく見知った笑顔が象られる。知らず知らずのうちに冷や汗が流れ、気圧されたように足が一歩後へ下がった。アメリカ合衆国である俺が、たかだか17歳の人の子に。
 けれど、イヴァンの笑みが保たれたのはほんの数秒だった。アメリカが瞬きをした瞬間、イヴァンの身体がぐらりとぶれ、膝から力が抜けて地面に落ちていく。咄嗟に差し出した腕は、イヴァンとコンクリートの間に滑り込み、圧し掛かってきた重みを受け入れた。



08

「イヴァン!」

 凭れ掛かった身体を、両腕でしっかりと抱きかかえる。アメリカの肩に垂れた頭から「頭が痛い」と蚊の鳴くような声を漏らし、それきり動かなくなった。
 夏が苦手なら大人しく体育館を選べばいいじゃないか。溜め息を吐きながら喉の奥に愚痴を留めるが、焦った顔で走り寄って来るフランシスを見て、ああ彼に付いて来たのか、と妙に納得がいった。

「アルフレッド!イヴァンはどうしたんだ」
「分からない、急に倒れたんだよ」

 アメリカを土台にしたまま、血相を変えて飛んできた先生がイヴァンの額や首筋に手のひらを当てて症状を診始める。

「軽い日射病だな。ジョーンズ、そのままブラギンスキを保健室に運んでやれ」
「OK」
「お兄さんも行くよ」

 慌てて主張するフランシスの首根っこを捕まえた先生は「まだ試合の途中だろう」とズルズル校庭の中央へ引きずって行った。


 カチャカチャと何かが擦れるような小さな音が耳に響く。意識を失う前に感じていた気だるい熱さは消えていた。鼻につくこの匂いは薬品だろうか。
 瞼を開くと真っ白な天井がイヴァンの視界一杯に広がった。個室を作るようにひかれたカーテンに、一人分の影絵が映る。座っているのだろう、低い位置にある胴体から伸びた腕が、瓶のような丸い影を掴んでいた。
 指先に力を入れて、ぐっと握る。不快な痺れが腕を伝い、頭の後をズクンと鈍痛が走った。ゆっくりと上掛けに皺を作りながら起き上がる。

「起きたのかい?」

 イヴァンの了承も得ず勝手に開いたカーテンの向こうから、一人の男が顔を覗かせた。薄い布で作られた個室を破り、ずかずかと侵入したアメリカはベッドの端に腰掛ける。

「保健の先生は呼び出されて20分くらい前に職員室へ行ってしまったよ。具合はどうだい?」
「・・・きみがここへ?」
「ああ」
「そう・・・ごめんね」

 目が覚めたばかりでまだ混乱しているのか、覚束無いトーンがアメリカの耳に届く。
 マシューやフランシス、もちろんアルフレッドもだが、アメリカの知る彼らより若返っているこの世界の国家たち。イヴァンも例に漏れず、あどけなさが残る青年の顔をしていた。ゆるくカーブした頬や大きな垂れ目は童顔と呼ばれる部類に入りそう。心のどこかでイヴァンとロシアをイコールで繋げていたアメリカだったが、あまりにも毒気がなく拍子抜けする。なんてことない、ただの子供だ。

「構わないさ」
「ふふっ、ありがとう」

 無邪気に笑った顔はロシアと大差ないというのに、敵国と認識しないだけで、こうも印象が変わるのかと思わず呆けてしまう。

「はじめまして、僕はイヴァン・ブラギンスキ」

 それはよく知っている。暖かい南の島に憧れるくせに暑い夏が苦手なことも思い出した。

「今は四時限目が始まったところなんだけど、君、どうする?俺はイヴァンに付き添うってことで授業免除なんだけど、四時限目が終わるまで君もここにいるかい?」
「まだ頭がくらくらするから動きたくないな」
「そうかい。チャイムが鳴る少し前に起こすから、それまで寝るといい」
「うん、そうする」

 もそもそと、皺を伸ばしながら横になったイヴァンを横目に立ち上がり、カーテンの外へ出た。正方形の机に添えられたパイプ椅子に座り、無造作に置かれた瓶を手に取る。みっちりと詰った消毒綿がのっぺらな顔をアメリカへ向けていた。
 はじめまして、か。期待していなかったと言えば嘘になる。正直、大いに期待していた。「やあアメリカ君。きみもなの?」そう言って欲しかった。
 机に突っ伏し、頬をひんやりしたテーブルクロスの上に乗せる。厚みのある透明なビニール製で、使い古された跡なのか所々凹んでいた。規則正しく刻み続ける時計の針の音。空調をきかせた保健室は全ての窓を閉め切り、他の教室からも遠くひたすら静か。チャイムが鳴るまで後40分、次第に落ちていく瞼はアメリカの思考を奪っていった。

「起きて、ねえ起きて」

 肩に置かれた手に上半身を揺さぶられて目が覚める。ズレた眼鏡を直しながら振り向くと、いつの間にか制服に着替えたイヴァンが立っていた。制服を着るとさらに幼さが際立ち、見慣れた軍服コートが記憶の隅に追いやられる。

「もう2、3分で4時限目が終わるよ」

 3時限目の体育が終わった後、フランシスが二人分の着替えを保健室に届けてくれたのだが、アメリカは面倒くさくてジャージのまま。早く着替えないと帰りのホームルームに食い込んでしまう。
 慌てて着替え始めるアメリカの横を通り抜け、イヴァンは出入り口へ歩みを進めた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよイヴァン!」
「なあに、寝ぼすけ君」
「っ寝ぼすけじゃないんだぞ!たまたま・・・」
「ひとつ上の先輩には敬語を使おうね。2年A組のアルフレッド・F・ジョーンズ君」
「なんで俺の名前・・・」
「ジャージに書いてある、ほら」

 青枠に囲まれた白地の布を指差しニッと小馬鹿にしたような笑顔を作ったイヴァンは「またね」と言い残して扉の向こうへ消えていった。