05

 コオコオと冷風が室内の温度を人工的に掻き回し、窓の外に描かれた猛暑をシャットダウンする。
 毛の短い絨毯の上に仰向けで寝転んだアメリカは、洗濯籠を抱えたマシューが目の前を横切るのを眺めていた。せっかくの休日だというのに、せっせと家事に勤しむなんて自分の片割れはなかなか働き者じゃないか、と感心半分卓上にあるポテトチップスへの食欲半分でごろごろと寛いでいる。家にはアルフレッドとマシューの二人しかいないのだから、当然といえば当然だ。どちらかが家事を賄わなければたちまちゴミ溜めになってしまう。
 壁にかかる時計の針は重なり合って正午を指し、そろそろお腹が空いてきた。のんびりと起床したマシューは十時過ぎ、アメリカはその一時間前には起きていたけれど朝食を用意するのが面倒くさくて戸棚に大量に入っていたお菓子を引きずり出し、現在も腹を満たし続けている。

「なあアルフレッド、僕がパンケーキを焼いている間にテーブルの上を片付けてくれよ」
「OK」

 この世界へ来てからマシューと二人きりで食事するのはこれで四回目。怒涛に過ぎていった異世界の生活は今日で三日だ。週休二日の公立高校なので土曜のお昼をダラダラと満喫している真っ最中。
 テーブルに置かれた読みっぱなしの新聞を四つ折りにして新聞入れに投げ込み、水分を含ませた台布巾で適当に拭き、ついでに冷蔵庫からジンジャーエールと戸棚からグラスを取り出した。キッチンからはあっという間に鼻腔を擽る甘い香りが漂い始める。濃厚なメイプルシロップとバター、その上にホイップクリームを搾り落とし、之でもかというほど甘ったるいマシュー特製パンケーキが完成した。手のひらより大きな皿の上に三段重ねになったホクホクの昼食が載せられ運ばれてくる。ちょうどいい、塩気の強いポテトチップスに飽き始めていたところだ。

「食べ終わったら食料の買出しに行ってきてよ」
「俺がかい?マシューは」

 真ん中で溶けかかるバターの上から十字に切り分け、フォークを突き刺しパンケーキを頬張ったまま不満気な視線を向けた。

「さっきまでぐうたらしてたのは何処のどいつだい」
「・・・分かったよ」
「今日は野菜が安くて明日は肉とお菓子が安いってチラシに書いてあった」
「それはつまり明日も行けってことかい?」
「That’s right」

 自分のパンケーキにナイフを入れながらニコリと笑んで言った歪な発音が、カナダとマシューの境を明確に象っていた。


 両手に二個ずつ袋を抱えながら炎天下の道をひたすら歩く。自転車で来れば、いいや、車で来ればすぐだというのに。一週間分の食料―主にお菓子が幅を取り自転車のカゴには収まりきらないし、車の免許はもちろん無い。仕方なく自分の足を有効活用することにしたアメリカだが、いくらなんでも買いすぎた。
 昨日の野菜セールも買いすぎて、冷蔵庫に入りきらないじゃないかとマシューに怒られたばかり。今日は肉とお菓子だから、入りきらなくても肉は冷凍庫へお菓子は戸棚へ、昨日みたいに小言攻めで二時間も没収されることはない、はず。マシューにどう誤魔化そうか考えながら商店街を抜け背伸びしたマンションが立ち並ぶ住宅街に入り込んだ。

 太い車道の脇に整然と並ぶマンション郡。駅から近いのでアルフレッドの家があるところよりも住宅が密集していた。閑静な住宅街は子供が遊ぶ声すらせず、地面から這い出たばかりの虫の音だけが木霊する。影を辿るようにマンションの壁伝いに歩いていると一棟先に人影を見つけた。
 見るからに高級な五階建てのマンションの二階の端っこ。ポケットからキーを取り出し鍵穴に挿し込む一人の男。この暑さには不向きな長いマフラーを靡かせたあれは・・・

「ロシア・・・?」

 思わず瞬きをするが次の瞬間、ぱたりとドアの閉まる微かな音が響いて耳に届いた。何事も無かったかのように静寂を取り戻す周囲からは僅かな生活音さえ聞こえない。一瞬だった。すぐに見えなくなったからロシアだと確証を持てるわけではない。

 衝動的に走り出しマンションのエントランスに向かう。しかし、入り口には暗証番号を入力するキーボックスが設置されており、住民でない限りエントランスには立ち入ることができないオートロック式になっていた。集合ポストを覗き込み二階の端のネームプレートを探す。

「イヴァン・ブラギンスキ・・・か」

 

06

「Oh God!」

 跳ね起きるように上掛けを弾き飛ばしたアメリカは、半ば悲鳴のような後悔を流暢な母国の言葉に置き換えて吐き出した。枕元に投げ出した手のひら大の携帯電話はいつもと同じ起床時間を知らせるアラームを響かせ、カーテンから漏れ込む強い白線が落胆したブルースカイを嘲笑うようにキラキラと輝いていた。

 どうしてこうなったのか、何が原因なのか。つまりは全部、アメリカ自身が招いたことで、懺悔の対象は昨日、ロシアらしきイヴァン・ブラギンスキを見かけた時の自分だろうか。
 汗をかいた手にべたべたと貼り付く重い買い物袋を吊り下げ、あのマンションから家に帰る途中、明日は早起きしてエントランス前で彼を待とうと決めた。
 もう4日だ。4日も全く同様の夢を見続けるなんて、有り得ることではないと流石のアメリカも薄々気づき始めていた。カナダに似たマシュー、フランスに似たフランシス、そしてアメリカに似たアルフレッド。彼らの中に、この夢から醒める手掛かりを持つものはいない。

 焦っているのだと思う。いくらファンタジー国家に育てられたとはいえ、アメリカ合衆国としての己から遠く離れたこの居心地の良い世界は悪夢としか言いようがない。
 ロシアについて深く知っているわけではなかった。むしろ、国家の中ではあまり知らない方だ。しかし、彼がイギリスに近い摩訶不思議なパワーを秘めていることは日本経由で聞いたことがある。ならば、イギリスらしき人間がいない今、ロシアに似たイヴァンこそアメリカが元の世界へ帰る手掛かりを持つ筆頭に君臨している筈。
 ゲームに例えるならお助けキャラというところか。又聞きで得た情報に頼るしかない状況は情けないが、藁に縋るくらいならロシアに縋ろうではないか。

 イヴァンと接触するには、彼が家を出る時のみ。けれど、オートロックを破るなんてHEROの正義に反する行為をするつもりは毛頭ないから、早起きして遅刻しない時間ギリギリまで家の前で張り込むしかない、と考えた。緊急事態だけど、学校をサボったらマシューの小言で、鼓膜と脳がゼリーになってしまうので当然の如く却下する。

「深夜にホラー特集なんてやるからいけないんだぞ!最後までばっちり観ちゃったじゃないか!怖くて眠れないっていうのにマシューはさっさと自分の部屋に行っちゃうし、付けっぱなしのテレビがいきなり砂嵐になるし!」

 無造作にソファへ転がしたテレビリモコンの上に足を投げ出したせいなのだが指摘してくれる兄弟は既に自室のベッドで夢の中。
 結局、アメリカは蒸し暑さと格闘しながらブランケットを頭まですっぽり被って体力の限界を超えるその時を待つしかなかった。寝ぼけ眼でアラームをなんとか仕掛けたけれど早起きすることをすっかり忘れ、現在、使い慣れたスプリングより硬めのベッドの上で呆然と頭を抱えている。
 そんなアメリカを催促するように再び鳴り出したアラームのスヌーズ機能が、隣室で眠りこけるマシューが仕掛けたアラームとリンクするように響いていた。


 ホームルームが終わり一刻も早く帰りたいアメリカだったが、マシューが化学の課題を提出し忘れたから待っててと言い残して職員室に行ってしまった。
 ノートを先生に提出するだけだからほんの数分で終わるよ、と付け加えられたものの極度にのんびり屋のマシューのことだ、数分という単語は一般的に認識されている意味とは異なるのだろう。

 寝坊して出鼻を挫いたからか、一日経ちイヴァンについて逸る情動が落ち着いてきたのか、いずれにせよ窓際に歩み寄り手すりに両腕を重ねてその上に顎を乗せ、マシューはしょうがないな、と溜め息を吐き出す余裕が持てるようになった。

 真上にあるギラついた太陽から逃げるように顔を俯かせた先に、昇降口から校門へ向かってぞろぞろと歪んだ列を作る学生達が目に入る。思春期に相応しい笑い声を上げ友人と肩を並べる男子学生の大群。
 ふと視線を投げると、校門付近に見知った横顔を見つけた。フランシスだ。ゆるくウェーブがかかる長髪を後で一本に纏めていたからすぐには気がつかなかった。
 無意識に目を細める。ニヤニヤ笑って何か話しているフランシスを見下ろす大柄な男。この炎天下の元、あまりにも似つかわしくない鬱陶しい長いマフラーが学生の波間に揺れていた。

「ロシっ・・・イヴァン!」

 咄嗟に名前を呼ぶが、聞こえるはずもない。二人の背は、手すりから身を乗り出したアメリカを残し校門の向こうへ消えていった。